南インドへの道

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  1. 南九州、大阪から東京へ

 私はこれまで私の二度の南インドを中心としたインド旅行について述べてきましたが、これからは私がなぜ南インドに興味を持つに至ったかについて、少しまとめてみたいと思います。  
 話は最初から飛躍しますが、昨年の夏、大阪に住んでいる父の弟が、一人で突然千葉の我が家を訪れました。あいにく父はデイサービスに出かけており、私や妻も出かけて家には誰もいませんでした。80半ばの叔父は、兄貴と会うのはこれが最後やろと、孫が書いてくれた地図を頼りに、一人新幹線と電車を乗り継いで我が家を訪れたのでした。私は外出先にかかってきた息子からの携帯で、不審な男が家の周りをうろついているとの連絡を受けました。息子の知り合いが近所に住んでおり、連絡があったとのことでした。父に似ているという風貌から大阪の叔父ではないかと思い、大阪の叔母に電話をすると、この暑い時期に、何も一人で出かけなくとも、と引き止めたらしいのですが、本人がどうしても行くときかないので、出かけたとの話でした。私は妻に連絡して急遽自宅に戻ってもらい、まだ周辺をうろついていた叔父を我が家に迎い入れることができました。
 叔父は夕方デイサービスから帰ってきた父とも何十年ぶりかに会うことができ、一泊して満足げに大阪へ戻っていきました。叔父は事前に連絡していなかったことを詫びましたが、兄貴に会いたいという気持ちから、年の初めから準備を進めてきたらしいのです。私の母が亡くなった時にいち早く香典は送っていただいたのですが、叔父は土産や母への供え物も用意してきていて、墓参りもしてもらいました。そして、何もかまわんでほしい。兄貴と久しぶりに会うて安心したわ、とうれしそうにくつろいでくれるのです。はるばる大阪から出てきて、猛暑の中をあてどもなくうろついていたにもかかわらず、疲労の色を見せず、いろんな話で我々を楽しませてくれました。行きたいと言ったら家族が引き止めても行く。しかし行った先に迷惑がかからないように配慮しながら楽しんでくる。そういうところが大阪人の自由闊達さだと思いながら、叔父との久しぶりの団らんを我々も楽しんだものでした。  
 私は宮崎で生まれ、高校時代までは、父の仕事の関係で宮崎や鹿児島を転々としました。高校を卒業したら東京へ出て、今まで知らなかったことを学んでいきたいと思っていました。大阪と千葉に親戚がいたため小学校時代、夏休みを利用して大阪経由で上京したこともありました。そうした折、子供心にも大阪から東の世界、特に東京の街並の雰囲気がどうしてもなじみにくいものに思えたものです。東京の大学に入学してからも同様でした。正月など宮崎に帰省して再び上京するときの気分は憂うつなものでした。途中、大阪の叔父のところに立ち寄ったことがありました。当時、叔父は造船所に勤めていました。大阪の街並を案内してくれましたが、タクシーに乗っても、運転手に「どや、もうかりまっか」と気軽に声をかけます。「あきまへんな、このごろは」と運転手も答えます。電車に乗っていても乗客は穏やかな顔や笑顔で何かをしゃべっている人が少なくありません。
 ところが東京へ戻るとそうした街の雰囲気が一変するのです。電車の中の人々の表情は、大阪と比べ物にならないくらい無表情でした。大学の授業や同級生たちとの会話も、知的で先進的だとは了解しても、それらは表情がなく冷たいものでした。自分の生活の根本的な問題とつながることはなくとも、ただただ他人よりも高級な知識を身につけようと皆が必死になっているようでした。大学の図書館に通って一人で学ぼうとしても、日本の首都、東京を中心に発達してきた学問の記述の仕方、あまりにも既成の学術的な言葉に頼りすぎる本の記述にうんざりしたものです。どうしてこうなったのか。日本語に本来そのような傾向があるのだろうか。中国からの漢字文化の到来が原因なのだろうか。しかし中国では漢字でしか表記できないので、微妙な発音のニュアンスによって話し言葉でもそのまま漢字を表現できます。ところが日本語は仮名表記と漢字表記が同居する中で、漢字表記は普段の生活の表現から乖離した独特の世界の表記として発達してきたようにも思えるのです。硬い漢文形式の表現や「である」調の何かまともなことを言ったような錯覚を覚えさせる文章、そうした表現が日本独特の学問的な言い回しを発達させてきたように思えました。私が大学に入った頃は学生運動が華やかなりし時でした。そこでは、立て看板やビラに見られる、何何的と言った表現の多用や、理論好きの学生たちがよく使う、海外の翻訳物のかた苦しい言葉がまかり通っていました。  
 こうした傾向はやはり東京を中心として発達してきており、これに対して大阪など関西の表現の仕方は明らかに違います。これは何なのか。それと同時に漢字文化が入る以前の日本における言葉やその表現の仕方はどのようなものだったのだろうか。私の関心は、大学当初、専門的に学ぶはずだった経済学や哲学の分野から言語学、文化人類学、民俗学、国語学といった分野に移っていきました。そうした中で出会ったのが折口信夫や大野晋の国語学や民俗学でした。
                                                                                                                     (09/01/2012)     
      
  2.  大学から職場へ

 われ今は 六十(ムソジ)を過ぎぬ  大阪に還り老いむ と思う心あり  
 戦後も国学院や慶応で講義を続けてきた折口信夫は、この歌のように歳とともに、彼の生まれ故郷である大阪への郷愁がつのっていきます。
「ことばからくる大阪人の俊敏性とその裏にある愚かさ、怯懦を表現することができなければ、与兵衛の持つ特殊性は失われるだろう。都市に慣れながら、野生を深く持つのが大阪人の常である。彼らは江戸人の誇りとする洗練を願うことがない。いわゆるえげつなさを身につけている。人の強さの底を知ると同時に、自分の弱さを互いに表現して恥としない大阪人の普遍性なのであった。ここに力点を置かぬ性格描写は恐らく近松の予想した彼の性根とは違ってくるであろう。」(中央公論、折口全集18巻「実川延若讃」)  
 こうした折口の文章に出会った当時、私は、洗練された知識のみで武装しようとする東京の知識人の中で窒息しそうになっていました。私たちが本当に知りたいことを教えてくれる書物に出会うことはまれです。私にとって折口信夫はそうした書物を書く数少ない思想家の一人でした。彼は我々が住む日本の近代社会の文化の萌芽を大化の改新による律令国家の誕生にまでさかのぼります。そして近代社会では隠されており、しかし我々の生活の根っこにある古代の生活の有り様を、律令国家成立以前の古代社会に見いだそうとします。律令国家成立後に記された万葉集や古事記、日本書紀、祝詞等に古代の面影を探るとともに、全国を歩いて民俗学的な探求の中にも古代を見いだしていこうとしました。特に沖縄での民俗採取はそこでの言葉が古代日本の言葉と類似していることを発見します。彼は民俗学を通じて、彼の思うところと日本古来の文化との接点に到達することができたのです。そこで彼が発見したのは、書き言葉以前の話し言葉の先行と、その意義でした。
 最初に述べましたが、私は東京の大学では経済学を専攻していました。経済学や関連する社会学、哲学を学んでも、どれもほとんどが翻訳物の言葉の世界で、理解はできるのですが、生の自分の生活の問題に直接響いてくるものではありませんでした。当時は大学紛争が頻発していた時期で、入学当初から私も学級閉鎖のストライキに参加していました。しかし大学当局は直接教授宅にレポートを送れば進学できることとし、レポートを提出しなければ2年留年することになり、多くの学生はレポートを提出して、学生運動はたいした成果もなく収束に向かったのです。クラスのリーダー的存在の一人であった私は、レポートを提出するわけにはいかず、教養学部に2年間留年することになりました。マスコミに持ち上げられて戦闘的な言葉を叫んでいた全共闘の学生たちがいとも簡単にレポートを出して専門学部へと進学していきました。50人のドイツ語のクラスで取り残されたのは私ともう一人だけでした。もう一人は、ある党派組織の専従として活動していました。私はそこまで活動することもできず、一人大学の図書館に通って、本当に知りたいことを学んでいこうとしました。  
 2年後経済学部へ進むと、当時経済原論で隆盛を誇っていた宇野弘蔵の弟子たちが教授となって資本論のゼミをやっていました。私も宇野弘蔵の理論には理解できるものがありましたので、そのゼミに参加しましたが、心に響くなんの成果もあげることはできませんでした。そうこうするうちに、人より2年遅れて(一浪していましたので、実際は3年です。)卒業する段階になりましたが、はて何処に就職したら良いのか見当がつきません。どういうわけかある電気会社に呼ばれていったことを覚えています。するとそこに2年前から勤めていた全共闘時代の友人がいて、こっそりと私に、「俺はそのうち辞めるよ」というのです。私も民間の会社に入って自分の勉強を続けることができるとは思えませんでした。入社する手続きのギリギリになって、私は人事に電話をして断りました。そして少しは自由に自分の勉強ができると思われる地方公務員(千葉県庁)の職を選びました。  
 県庁では最初から職員組合の活動に参加して、ビラなどで自分の考えを書いたり、夕方、宮沢賢治などの読書会を開いたりしました。数年後農業関係の部署についた私は、農学会という組織も立ち上げ、有志たちと有機農法や市場経済を乗り越えた農法などについても勉強しました。そうした私の活動を知った上司の紹介で、私はある酪農団地の組合長と出会うことになったのです。組合長は50代の働き盛りで、自分の牧場で有機農法を軸とした農業文化活動を進めていました。我々の活動の趣旨とも合うことから、みんなで牧場に大きなログハウスを造ることになりました。それが「タラの芽庵」なのです。そこで我々は「まほろば通信」という機関誌を出して同じ考えを持った人々との交流を広めていきました。  
 ところで就職して数年後に私は結婚しましたが、妻の実家の父親は地元の由緒ある神社の神社総代をしており、神社仏閣の成り立ちや由来に関する造詣が深く、読書家でもありました。その義父が、あるとき中央公論社の折口信夫全集全31巻を、自分もそのうち読むからと、私にポンと買ってよこしたのです。私が義父に折口を読んでいると話したわけでもないのに、何故か全巻を揃えてよこしたのです。私は仕事を終えて自宅に戻ると夜遅くまで全巻を読破していきました。そして地元の図書館にそろっていたノート編全巻も読み終わると、自分たちの機関誌「まほろば通信」に「死者の書—万葉びとと古代」<私たちの知はどこまで古代をさかのぼることができるか>という折口信夫論を発表しました。義父にも読んでもらいました。折口信夫の研究機関にも送りましたが、受け取ったので保管しておくという返事が返ってきただけでした。もちろん私は学者ではなく、一介の地方公務員に過ぎませんでした。私の表現場所は、「学会」とかのつながりは全くなく、職場の同僚やたらの芽庵を通じての友人たちとの交わりの中での表現でした。田舎から出てきた私にとって、期待した大学教授たちの考えに失望してから、学会とか著名知識人の世界は、前述した東京という地域の閉鎖的な学術世界とだぶってきて、あまり関心を持たなくなりました。自分の生活の問題と結びついた疑問を解き明かして文章にしていくこと。それを、時間をかけてでも、一人でも共感してもらえれば、そこから先が開けていく。そんな思いで、当時も、そして今も考えるべきことを考え、表現しようとしてきました。  
 このように、大学を卒業した後も折口信夫との対話が続くと同時に、休日や仕事の合間に、たらの芽庵での文化活動を続けていったのです。  
 当時私は折口信夫に触発されて、近松や兼好法師、紫式部などの古典を読んでいましたが、たまたま大野晋の源氏物語論を読んで、彼の感性の豊かさと緻密な論理展開に注目しました。またドラヴィダ語族のタミル語が日本語の起源であるという彼の説にも興味を持ちました。そこで、南インドで古くから発達してきたドラヴィダ文化の歴史について図書館などに通いながら独自に勉強していくことになりました。ドラヴィダ文化の基礎となるヴェーダの教えでは、語る言葉の重要性、書き言葉以前の、言葉の響きと語りによる伝達の重要性を説いていました。それはまさしく折口も執拗に説いていたところでした。(01/02/2012)                                                                                                          

3. 退職間際になって

  ヴェーダの教えはリグ・ヴェーダ、サーマヴェーダなどの四大ヴェーダ、それらの哲学的な解説書であるウパニシャッド、古代神話などが集大成されたプラーナ、そして長大な物語であるラーマヤーナやマハーバーラタなどから学ぶことができます。サンスクリットで書かれたものが多いので、そこから勉強するのが理想ですが、私のグル、アイヤーさんによるとサンスクリットをマスターするには最低でも8年かかると言います。そういうことでサンスクリットについては、私はまだ勉強中です。しかし幸いこれらのほとんどは日本語に訳されていますので、図書館などで訳されている限りのものは読むことができました。四大ヴェーダは象徴的な表現が多いので、サンスクリット語で声を出して読むことが重要になってきます。しかしウパニシャッド(東方出版から全書が出ています。)やマハーバーラタ(三一書房から全訳が出ています。)には和訳でも理解できる部分があります。  
 ヴェーダはヒンズー教の聖典でもあり、また仏教もヴェーダの教えから育っていきました。しかし私がヴェーダ文献を読みながら感じたことは現在私たちが理解している仏教とヒンズー教の明らかな違いでした。どこが違うのか。それは人間が獲得すべき知識というものに対する考え方が仏教とヒンズー教では根本的に違うのです。どういうことか。仏教には空という考えがあります。我々日本人が般若心経でよく耳にする、色即是空、空即是色という言葉のなかの空です。色は我々がみる様々な現象、空はそれとは正反対な無ということでしょうか。そうではないというのが仏教学者の解釈です。空とは、禅問答のような言葉ではなく、この世の中の現象は、無限の網の目のようにお互いが関係しあって成り立っている、したがってこの世にこれらの現象を支える実体というものはない、無限の関係、形態というものがあるだけだという考えのようです。ですから人間の知識というものは、むやみにありもしないことを想像して知識を増やすべきではない。あるがままの関係の中の知識をあるがままに認めるしかない。バラモンやヒンズーの教徒は、ブラーフマンやアートマンなどといったありもしない実体的な概念をもてあそんでいる。そんなものはない。あるのは無限の関係の網の目だけだ。仏教学者はそう説明します。無限の関係は因果という言葉でも表現されます。無限の原因と結果が連鎖しあうのがこの世というものであって、それ以上でも以下でもないということでしょうか。仏陀自身がそう思ったのか。そうだとするなら彼がそのように表現せざるを得ない状況の背景には何があったのかということです。  
 『タラの芽庵便り』にも書いたように、私はインドを旅したとき、仏陀が最初に教えを説いたサールナートを訪れて、そこの博物館に展示されていた青年仏陀座像の端正な姿を見て感動しました。それは溌剌とした意思に満ちた姿でした。しかし、そこで突然私が思ったのは、もしそうした彼の前に、ぼろ切れを着て、悪臭と汚穢にまみれ、どこか身体の不具合を持った乞食者、知能程度も低く、ただただ食料を求めてさまよい歩く乞食が現れたとしたら、彼はどう対応しただろうかと思ったのです。というのは逆にそのような場面に遭遇する仏陀を想像することができなかったからです。彼自身は様々な学問を学んだ知識人であり、彼の周りには、いつも彼の教えを知識として習得したいという知識人、バラモンのような学者たちが多勢いたのではないか。彼らはヴェーダの教えであり、ヒンズー教でも重要な概念であるブラーフマンやアートマンといった実体的な存在を仏陀はどう考えるのかとしつこく迫ったことでしょう。しかし仏陀の望んだ生活とはそうした議論や苦行や施しに明け暮れることではなく、何ものにもとらわれることなく、端正に慎ましく、ただただ生き抜くということでした。ですから彼はバラモンたちの議論に巻き込まれることを良しとしなかったのでしょう。バラモンたちから、これは良いことなのか、悪いことなのか、と具体的な事例を示して問われた場合、良いも悪いも、この世の現象に過ぎない。この世の現象は因果の連鎖に他ならない。それ以外のものは何もない。淡々と摂生して、自らは良い行いを目指しながら、しかしそれを誇ることなく、死を迎える他はない。そう答えるしかなかったことでしょう。しかしそれがまた、仏教の隆盛とともに、仏教徒の中の知識人に空の思想を植え付けることになったのかもしれません。スッタニパータなどにみられる仏陀の言葉は、新たな宗教を開設する者というより、一人の人間として、自分はどう生きていくのかといった考え方の表明に過ぎないようにも思えます。したがって仏陀本人にとって、空の思想は、単に、実体論的な難しいことは考えなくとも、この世の現象をそのまま受け入れて、そこで苦しみ、楽しみ、死を迎えていくということで良いではないか。そういうことであったのかもしれません。だが空の思想はそれ以降一人歩きをしていくのです。  
 物事の実体を追求せず、物事の関係の連鎖をのみこの世の現象として是認する。これが節操ある知識人という者の姿だと思わせる雰囲気が、空の思想にはあります。例えば現代の知識人が崇拝する言語学者のソシュールや哲学者のヴィトゲンシュタインなどは、偶然ばらまかれた、あるいは生成した物の存在が将棋の駒のように関係しあって、将棋の盤面そのものを構成する、それが我々の世界というもののすべてだといったような考えを思わせるところがあります。そうした説明は、様々な実体論でうんざりしていた当時の知識人に、スマートで新鮮な思想として受け入れられたものです。知識人の知識としては、それはそれで分かります。しかし、実際に様々な苦難の中で様々に生活している者にとって、実体的な概念をありもしない幻想だと排除して、構造的な関係概念だけですべてをとらえてよしとする知識人の世界にすなおに同調することができるのでしょうか。  
 論理哲学論考でしたか、ヴィトゲンシュタインは「語り得ないことについては、人は沈黙しなければならない」という有名な言葉を残しています。東京の知識人がこうした彼の言葉を、さも意味深に振り回しているのを聴いて、大阪の一般人はどう答えるでしょうか。ええかげんにせえへんか。そげな具合に、えろうぎょうさん語りよるやないか。語れば、語り得んことも語りうることも、あらへんのや。実体やろうが、構造やろうが、関係やろうが、何か分からんが、えんりょせんで何でも語ったらええやんか、そこでわいらにほんま、ピンとくるものがあったらそれでええやないか!そっからまたいろんなことが分かってくるんやさかい。そんな風に答えるのかもしれません。こうして東京の知識人と大坂人との関係は、私にはまさしく仏陀を継承していく仏教徒とヒンズー教徒との関係のように思われてきたものです。すなわち、ヴェーダの呪術的、土着的思想やその象徴的な表現を乗り越えて、知識人としてのスマートな生き方を求めようとする仏教徒と幻想的であろうとも自分の感覚にしっくりとくる何かを求めていこうとするヒンズー教徒の関係のように思えてきたのです。  
 自分では実体的なことは、それが槍玉に挙げられ批判されるから言わない。しかし実体的な表現に何かがあるかもしれないという、期待はある。いわゆる東京の知識人特有の内容への憧憬といったもので、自分には数学的、論理的な誰からも非難されない知識以外には何もないので、自分の外部の、何か内容のありそうなものにはすぐに飛びつきたがる。そしてそれらに飽きたらすぐ批判したがる。私自身、東京での学生時代そんなむなしい世界に生きてきました。ですから私が就職してから三十数年が経ち、もはや退職間際になるというのに、アートマンであろうと、ブラーフマンであろうと、プルシャであろうと、その意味するところを、インド古来からの、どろどろとした様々な表現の中から学んでいこうとすることは、何かそういう知識人の世界から解放されたような喜びを感じたものです。  
 仏教は東へと伝来し、中国を経たいわゆる大乗仏教は6世紀に日本にまでたどり着きました。そして仏教は律令国家の文化的な礎となり、日本独自の仏教芸術を発展させてきました。一方で民衆の平安を祈る仏教の流れは、知識としての貴族階級の仏教に飽き足らず、平安時代の密教や鎌倉時代の専修念仏といった一派を生みながら江戸時代まで発展してきました。しかし明治維新の廃仏毀釈などにより、寺子屋や檀家制度により守られてきた日常的な仏教組織は解体し、仏教は単なる葬式仏教となって今日に至っています。寺を中心とする仏教の教えに日常的に帰依する人々はごく少数であり、日本の仏教は、皮肉にも外国人から禅の作法として日本人以上に興味を持たれています。我々がお寺や仏像を巡るのも、信仰からではなく、文化遺産としての観光スポットであるからにほかなりません。  
 仏教はこうして多くの日本人にとって単なる知識に過ぎなくなりました。そのような日本人とは何なのか。相手を打ち負かすだけの知識に頼り、神秘主義的なものや実体的なものの表現をあざ笑い、自分の体験からくる真の知識を葬り去ってしまうような一部の知識人を生み出してきた日本人というもの。我々日本人は、もはや霊魂とか我々の心を動かしている出来事の意味深さを真剣に考えようとする世界からずいぶんと遠ざかってしまったような気がします。ものや人の表情を言葉だけの意味以上のものとして読みとろうとする努力や興味も薄らいできたようにも思えます。ある外国の哲学者が日本を訪れてびっくりしたのは、日本人がどこの国にもみられないほど記号に埋もれた世界で記号にのみ頼っている異様さだったと言っていたのを思い出します。安心感を与える言葉や記号で充満した日本、言葉以上の仕草や身振りでも多くを語り得る世界を失ってしまった日本、言葉の発声や言葉の奥に隠された意味を探ろうとする意欲のない知識人の世界、そんな世界を離れて、仏陀が悩み、仏陀が学んだヴェーダの世界、知識人も大衆も飲み込む大いなる大地インド、日本人の言葉や文化の起源をも彷彿とさせる南インド、ドラヴィダの世界、そこを訪れて体で考えていかなければならない。退職間際の私にとって、不安ではありましたが、どこかから限りなく新鮮な風が私を追い立てているようにも思えました。(続く)
                                      (15/02/2012)  

4. 理屈の世界との決別

 前回まで私は、相手を打ち負かすような知識に頼り、神秘主義的なものや実体的なものの表現をあざ笑い、自分の体験からくる真の知識を葬り去ってしまうような知識人の世界、我々の心を動かしている出来事の意味深さを真剣に考えようとする世界から遠ざかってしまった世界、そうした傾向のある日本を離れて、インドへと自分を解放することになった経緯を述べてみました。しかしそうした述懐そのものも一つの理屈であり、それも今回で終わりにしなければと思っています。  
 というのも私がインドで出会った人々にそのような私の経緯を話したとしても何の意味も持たないからです。インドの巷に往来するぼろ切れをまとっただけの、乞食のようなサドゥーの存在がまさしく今の私の対局に存在しています。ヒンズーの教えによって世間から解放された彼らは自ら何ものも物語ろうとはしません。ただそこに貧相な姿で存在するだけです。これ見よがしに何かを語ろうとするサドゥーは、私にはうさんくさく思われます。何も語ろうとしない、ただただじっと、何も所有せず、そこに存在するだけの姿が、それだけで我々に対峙しているようにも思えます。

 ウパニシャッドでは、4住期という人生の遍歴に関するヴェーダの教えの最後の到達点である遊行期の描写が見られます。
「祭游行者(Parivrajaka)にも四種あり。クティーチャラ(Kuticara「子家行乞遁世者」)は、自己の子女の家に乞食して自我を得んと力むる者なり。バフーダカ(Bhudaka「多水遁世者」)とは三状、水瓶、水筒、履物、椅子、纓、腰布、及び赤褐色の衣服を携え、風儀好き婆羅門の家に乞食して自我を得んと力むる者なり。ハンサ(Hamsa「白鳥遁世者」)とは一杖を持し、髪を捨て、祭纓を着け、水筒と水瓶を手にし、村には一夜、市及び神聖なる浴場には五夜を過ごし、その間、一夜または二夜、月齢断食(candrayana)の如き大苦行を行じて自我を得んと力むる者なり。パラマハンサ(Paramahamsa「最高白鳥遁世者」)とは杖を携えず、剃髪して襤褸(らんる=ぼろの着物、つづれ)と腰布とを纏い、徽章なく、固定の生活法なく、狂者にあらざれど狂者の如く放校し、三杖、水瓶、水筒、履物、椅子、祭纓を棄て、廃屋または社殿に住し、正不正、虚偽を知らず、一切を忍受し、一切において従容として、土石黄金を平等に視、行くがままにすべての四族に乞食してその霊を解脱せしむるなり。」
「行者たるものは、特に求むることなく、特に彼のために用意せらるることなき食を喫せよ。決してそを乞い求むることなかれ。それ行者は嬰児性を自性とし執着なく罪なく、常に嬰児の如き状態に住せんと努めよ。そは独存解脱は沈黙と賢明と無功用(niravadhikarata)とによりてのみ得らると生主言ひたればなり。樹下に住し、粗衣を纏い、伴侶なく、独一にして。アートマンを欲し、満足を欲とし、欲を離れ、老を欲として住せよ。木の如くに不動に住し、身を切らるるも怒ることなく震えることなかれ。真実に住せよ。そは真実は実にこれアートマンなればなり。」(ウパニシャット全書8Vajra-sutika(ヴァジュラ・スーチカー 東方出版、神林訳))  

 ここでは遊行者にも様々な段階があることが述べられています。共通するのはできるだけ所有物を身につけず、ぼろをまとい、はたからは狂ったように見えても嬰児のような天真爛漫さを示しながらも、老人であることを欲し、木のごとくに不動に住するということです。といってもサドゥーたちはこのウパニシャッドの言葉を忠実に実践しようとしているのではありません。ウパニシャッドの教えを知らなくとも、インドの文化的な土壌が彼らの存在を生み出しているように思えます。もちろん観光客を目当てにしたうさんくさいサドゥーまがいの物乞いも多数存在します。しかしそのような存在があって、そこにまぎれて誰が真のサドゥーか分からないが、真のサドゥーたちは存在する、というような場所に満ち満ちているのがインドなのです。また、これ見よがしにヴェーダやヨガの教えを説くグルの存在もアーシュラムなどを運営しながら北インドなどに多く見られます。西洋の文化人たちがそこを訪れ、ヨガを実践したり、教えを乞うたりしています。真面目なものもあるのかもしれませんが、ここにも様々な意図から利益を上げようとする観光客目当ての団体も見られます。しかしそのような団体の間に隠れて、真のグルが存在するのもまたインドなのです。偽物と本物が混在するなかで、本物は自らの存在を誇示することなく、そこにあるのがインドだと思います。  
 ヒンドゥという言葉は、サンスクリットのインダス川を意味すると同時に、その対岸に住む人々をも示す言葉です。そして人々とはひとくくりにすることのできない一人一人の集合体であり、偽物であれ、本物であれ一人一人は神をも示す存在ではなかったかと思われます。偽物の神とは何ぞや。それは本物の神を隠す存在であり、そのことで本物を本物たらしめる存在なのかも知れません。そうしたなかで本物は世俗の境目で寡黙と嬰児性と奇々怪々さを維持することによって、隠れて生きることができるのかもしれません。
「我はこれなりと知りて人は自我を知るべし。何を欲し、何のために肉体は悩まさるや。知ある婆羅門は自我のみを知りて般若を得べきなり。多様の語を瞑想するなかれ。こは言語の浪費なれば。」(ウパニシャット全書9、Satyayaniya(シャートヤーヤーニーヤ) ) 
 多様の語を瞑想する事なかれ。多様の語を駆使する事なかれ。インドではもはや私のように理屈だけをこね続けてもどうしようもない。冒頭に述べたようにそれがインドへ行ってやっと分かったのに、私はまだ、性懲りもなくこうやって書いてきました。南インドへの道はこれで終了します。次回からは偽物とも本物とも区別がつきがたい、日本の平凡なサラリーマンの長い長い物語が始まります。
                                       (09/04/2012)  
                                                                                                 
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