2016インド旅行記

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  1. ニューデリーからアグラへ

 昨年末三度目のインド旅行を終えました。私自身は、三たび訪れることはないかもしれないと思っていたのですが、娘が急にお父さんが訪れたインドに行ってみたいと言い出したのは昨年の7月ごろでした。娘は今の職場を辞めるつもりで、新しい職場を探している、それが10月には決まるので、そうしたら、いまの職場を退職する際、今まで溜まった有給休暇を利用できるので、一緒に行きたいと言い出したのです。私は早速、10月にはインドを訪れる予定だと、インドの友人たちに連絡しました。ところが娘からは、まだ新しい職場が決まらないので10月には行けそうもないと連絡してきました。そこで私は、これはもう今年中には行けそうもないなと、たかをくくっていたのですが、11月に入って、娘から、新しい就職先が決まった、12月にはインドいけるよ!10日間くらい、と言ってきたのです。私は急遽旅行行程の作成や、飛行機やホテルの予約に追われました。11月後半になると、私は風邪をこじらせて、体調は良くありませんでした。それでも何かが、行くべきだという風に私の背中を押したのでしょう、私はかかりつけの医者から風邪薬や抗生物質をたっぷり処方してもらって、インドに行くことにしたのです。

  昨年12月の初旬、それぞれ10日分の荷物を背負って、始発の電車で成田空港に向かいました。飛行機は、韓国の仁川空港経由で夜7時過ぎにニューデリーの空港に到着しました。あらかじめ頼んでおいたタクシーでホテルに向かい、風邪気味の私はベッドですぐに眠り込んでしまいました。
    翌朝は、H.I.Sのタージマハルツアーを頼んでおいたので6時半にホテルまで車が来てくれました。ホテルの朝食バイキングは7時からなので、事前に弁当を作ってもらいました。車にはもう一人日本人の男性が乗っていました。千葉の医療機器の会社で働いている、独身だが、結婚するとこういう旅行は行けないので、と安宿に泊まりながらの一人旅だと言います。他にはインド人のガイドと運転手です。車は総勢5人でタージマハルのあるアグラに向かいました。高速道路を利用して、ニューデリーから4時間ほどでアグラに到着、混雑を予想していましたが、観光客はまばらでした。日本語が堪能な若い男性ガイドによると、この時期、朝は霧や、もやが立ち込めて視界が悪い。ちょうど晴れ渡る頃が、客も少ないということでした。全て大理石で造られたタージマハルは雲ひとつない晴天に輝いていました。建物の裏側から見たヤムナー川の広がりとはるかに見渡すアグラ城の景観も素晴らしい。そのアグラ城を見たあと、昼食を取り、大理石の工房やお土産屋を見てニューデリーに戻りました。車の中での話題は、もっぱらインド政府がつい最近電撃的に行った高額旧紙幣の使用禁止令でした。インドでは、課税逃れのタンス預金が主流で、政府は所得税の徴収が難しいのです。そこで高額旧紙幣を無効化して、その代わり銀行預金を増やし、課税の対象を把握していこうというわけです。日本に高額旧紙幣を溜め込んでいたインド人たちも急遽帰国して銀行に預金しようとしたのか、日本からインドへ向かう飛行機の機内は満席でした。高額紙幣が流通しないので、日常使う10ルピー札や100ルピー札の需要が増えて、品薄となり、我々旅行者はなかなかドルや円からルピーに交換することができない。同じツアーの日本人男性は、我々以上にルピーの持ち合わせがなく困り果てていました。空港でドルから変えてもらったルピーは、新しい2000ルピー札ばかりで、インド国内ではほとんど誰も小額ルピーに交換してくれないのです。すると、ガイドの若いインド人男性は、途中の店に立ち寄ってその男性のために2000ルピー札を小額ルピーに変えてくれました。なんども無理を言って替えてもらったのも、娘に言わせると店にガイドがリベートを払っていたようだと言います。しかしガイドはリベートを男性に要求せず、そのまま2000ルピー分の小額紙幣を渡していました。ガイドには、困窮している人を助けようとする気持ちが現れていました。

 

2. ニューデリからチェンナイへ(アイアーさんとの再会)                 

 翌朝、ホテルで頼んでおいたタクシーでニューデリーの空港に向かいました。チェンナイまでの国内便なので国内便専用の区域に向かうのかと思ったら、運転手は国際便のゲートの方に向かいます。どうやら国内便でも国際便の方から出る便もあるようです。知らない運転手に頼んでいたら大変なことになっていました。しかし飛行機はなんと2時間以上遅れてチェンナイ空港に着きました。その日夕方までには訪れると約束していた、私の恩師、アイアーさん宅にはもう真っ暗になった時間に訪れることになりました。予約してあったホテルに立ち寄る時間はない。アイアーさんの娘プールナさんは、携帯のメールで、昨日来襲した何十年ぶりかの巨大ハリケーンで被害が甚大であり、死者も出ており、今尚停電状態が続いていると伝えてきていました。到着したチェンナイ空港からアイアーさん宅に電話してもなかなか繋がらない。これもハリケーンの影響かと思われました。ようやく娘さんとつながる。娘さんは、我々がプリペイドのタクシーに乗ったら、携帯で自分を呼び出して、すぐに運転手と代わってくれ、そうしたら運転手に道案内するからと言ってくれました。早速車に乗り込んで彼女を呼び出し、運転手に携帯をそのまま渡すと、運転手は、携帯を耳に当てながら、彼女の誘導に従って運転していきます。何度も途中止まりながら暗い道を確認していきました。道路ぎわには、いたるところで、ハリケーンで倒壊した木々が折り重なっています。やがて暗い路地裏に入ったところにアイアーさんの家があり、娘さんが家の前に立って我々を迎えてくれました。そして部屋の中へ。アイアーさんが入り口で我々を抱擁で迎えてくれました。娘さんのプールナさんによると、今日も午後二時ごろまでは停電が続いていたとのこと、そのため、予定していたご馳走があまり作れなかったことを気にしているようでしたが、それでもお腹をすかした我々のために、美味しいドーサをたっぷりご馳走してくれました。ドーサは、米や豆などを薄くクレープ状に焼いた、この地方の郷土料理です。私の娘は、南インドに行ったら是非食べてみたいと言っていたので、大喜びでした。そのままでも美味しいのですが、作っていただいた様々なペーストやジャムにつけて食べると、さらに味わえます。アイアーさんは今年92歳、しかし顔色も良く、お元気でした。私との付き合いは、2007年、私が初めて南インドを訪れた時に、ヒンズー教の施設で偶然お会いしたことから始まります。彼はインド国鉄の技術者でしたが、1968年、42歳の頃、日本とインドの文化交流施設として、3ヶ月ほど日本に滞在したことがあります。日本の文化に理解を示す彼と偶然出会ったことから、その後、メールを通じてインドと日本の文化の共通点と相違をお互い意見交換していくことができたのです。彼は、ナマステというインドの挨拶の言葉が、日本のおもてなしの精神と似ているといいます。どちらも相手の心の中にある尊敬すべきものを敬う精神があると。ナマステはサンスクリット語です。バラモン階級としての教育を受けて、英語やサンスクリット語を流暢に操ることができるアイアーさんは、2007年以降、ほとんど毎月私に送ってくれるメールの中で、私に古代ヴェーダ哲学が表すサンスクリット語の重要な言葉について、その都度教えてくれたのでした。
  日本での文化施設としての滞在を終えた翌年、アイアーさんは、交通事故で最愛の息子を失います。しかし、彼はその翌年、当時師と仰いでいた南インドのヒンズー教の最高指導者マハーチャリアから、途方もないミッションを授かることで立ち直ります。マハーチャリアは、8世紀ごろの優れたヴェーダ哲学者シャンカラの生まれ変わりとも言われた人物で、当時のガンジーとも会談しています。その彼がアイアーさんに与えたミッションは、インド哲学の古典、バガバッド・ギータの4章と5章を英訳したものを、30万部印刷して、アフリカの子供達に配れというものでした。最初、資金と印刷・配布方法の手立てのないアイアーさんは途方にくれます。マハーチャリアはアイアーさんに言います。30万の子供達のうち、一人でもこの本に興味を持ってくれたら、それで人類の未来はある、と。なんともこれまた途方も無い考えです。しかし、アイアーさんは、友人たちの援助もあってミッションを遂行し、今まで40数年間、毎年その都度印刷して20万部を配布してきたといいます。今回、アイアーさんは私と私の娘にこの小冊子をプレセントしてくれました。そしてこれを日本語に訳して、日本の小学生に配ってほしいという、以前からの私に対する要望を繰り返しました。私は、このままでは日本の子供達には難しいし、また学校を通じて配る手立てもない。しかし何か童話のような形にして、出版してみたいと思うと、以前の返事を繰り返しました。それが実現したらここにあなたの名前が入る。と冊子の最後のページを指し示します。このことは、アイアーさんから私へ下されたミッションと言えるのかもしれません。  
  彼の立派な住居には、ほかにプールナさん夫婦とアイアーさんの妹が住んでいました。プールナさん夫婦の一人娘は、二年ほど前結婚して別のところに住んでいますが、まだ子供はいないとのことでした。プールナさんの姉は、結婚して今シンガポールに住んでいます。贈り物を取り交わし、美味しいドーサをみんなで食べながら、語り合い、楽しいひと時を過ごすことができました。さて、外は真っ暗、予約してあったホテルまでのタクシーを頼もうとしましたが、プールナさんは、すでにホテルには、我々が遅く到着する旨を伝えてくれており、しかも自分たち夫婦がこれからホテルまで車で送っていくと言います。プールナさんの夫の運転でまだハリケーンの影響で木々が倒壊している道を無事ホテルに送り届けてくれました。明日は私が前回訪れた世界遺産マハーバリプラムを娘にも見せたいので、行くことになっていました。するとプールナさんは、かって彼女の下で働いていた運転手に電話をかけて、朝ホテルにきてもらうようお願いしていました。ホテルのカウンターまで来て我々の部屋番号を確認して、明日8時にロビーで待っているように、リーゾナブルな値段で運転してくれるので、これから先の移動も彼と何かと相談してほしいと言って、帰って行きました。彼女は現在、チェンナイの大きな病院で病院の企画も担当するマネージャーとして多忙な毎日を送っています。明後日には、病院で、精神面と肉体面が人間の体でどうつながっているのかをテーマとした講演会を開くので聞きに来てくれないかと誘われました。私は、その日はカーンチプラムで友人に会うことになっているのでいけないと断りましたが、テキパキと先を読んで物事に対応していく彼女に、インド人女性特有のたくましさと知性を感じ取りました。  

 

3. マハーバリプラムへ

 翌朝、我々はホテルに迎えに来たプールナさんお勧めのタクシードライバー、ヴィージェイの車に乗ってマハーバリプラムに向かいました。前回は、私はリクシャーを雇って、テクテクと向かったのですが、今回はクーラー付きの快適な車です。しかも7年前にはなかった高速道路を通っていくのです。1時間ほどで到着したマハーバリプラムは、様々な場所に囲いが施されて、海岸寺院など特定の場所は、入場料を払わなければならない。しかも外国人の料金は地元の人の10倍以上です。前回はどこも無料で見ることができました。なるほど、このようにして高速道路を作ったり、雇用を生み出しているのかなと思いました。雲ひとつない、真夏の暑さです。有名なバターボールやガンガーの降下と呼ばれる、見事な古代石造彫刻は昔のままでした。海の方に向かって海岸寺院を目指しました。寺院を見渡す木陰で休みました。海辺にぽつんとたつ広がりが、なんともいえない。娘を十分満喫させることができました。マハーバリプラムをでて、運転手ヴィージェイは、有名なヴェジタリアンミールスの大衆食堂に連れて行ってくれました。広い店内は、お客でいっぱいです。大きなお盆に様々なカレーが丸い器に盛られている。最初に出されたチャパティーと呼ばれるナンのようなものをつけて食べるととても美味しい。そのあと、蒸した米がどんどん継ぎ足されてくる。ヴィージェイは、お盆からカレーの器をテーブルに取り出すと、バナナの皮が敷かれたお盆の真ん中に米を山盛り、そこに様々なカレーを混ぜて、右手で器用にすくいながら、美味しそうに食べている。彼は、携帯に写った、まだあどけない娘の写真を我々に見せて喜んでいる。私は、お米はとうとう途中で残しましたが、私の娘とヴィージェイはきれいに平らげていました。そのあとはバナナの房も出てくる。さすがにそれは3人ともお腹に入りませんでした。それにしても、肉、魚類、卵などは一切食べない、ヴェジタリアンの食生活にはいつも驚きます。南インドでは、それが大衆一般の食生活でもあるからです。様々な香辛料をベースに、豆類、ジャガイモ、トマト、ほうれん草、玉ねぎなどを混ぜ合わせたカレーは、どれも美味しい。ヴェジタリアンであったガンジーも、断食中にひよこ豆だかなんだか忘れましたが、ある豆類が食べたくなって辛かったと言っていますが、本当に野菜や豆類を様々な香辛料で工夫してこしらえる南インドのミールスは、人類にとって注目すべき食文化だと思います。しかし様々な香辛料の大量摂取に慣れていない日本人は、やはり何度もトイレに通うことになります。そうすると、毎日大量の香辛料と野菜を摂取している南インドの人々の体と我々日本人の体の体質は、根本的に変わってくるのではないか、そしてそれは精神面でも違いを生じさせるものではないのかと思ってしまいます。特にヴィージェイの穏やかで、人の良い顔を見ていると、そう思います。
 食後私が店員にクレジットカードで支払えないかと聞くと、今回の巨大ハリケーンで、電子機器が回復していないので、ルピーで払ってくれと言います。仕方がないのでなけなしの小額ルピーをほとんど使い果たしてしまいました。あとは空港でドルと両替できた新発行の高額2000ルピーのみです。これを出してもほとんどの店では拒否されてしまいます。我々のスマートホンには、在チェンナイ日本国総領事館から、何度も、新高額紙幣発行に伴うインド中の混乱についての情報を伝えて来ます。しかしどうしたら良いのかは伝えてくれない、領事館に来てもらっても小額ルピーへの両替はできませんよと、注記するくらいです。確かにインドの一般市民も困っているようでした。道路沿いの銀行やATMの前にはインド中どこも長蛇の行列ができていました。チェンナイ市内に戻るとヴィージェイは、博物館などを案内してくれました。博物館の入場料で小額ルピーを使い果たした我々は、ホテルへ戻って、なんとか両替してくれないかと頼んでも、ホテルでももはや対応できないと言います。近くのショッピングモールに両替できる場所があるので行って見たらと言うことで、ヴィージェイに案内してもらいました。しかしそこでもドルと交換できたのは、またしてもほとんど流通できない新高額紙幣の2000ルピーのみでした。人の良いヴィージェイは、今日一日のタクシー代は2000ルピーで受け取り、明日カーンチプラムまでのタクシー料金も2000ルピーで受け取り、お釣りを小額ルピーで払ってくれると約束しました。この新高額紙幣発行によるインド中の大混乱については、連日インドのテレビで報じていました。政治問題が好きなインド人は、今回の政府の措置の是非を巡って、口角泡を飛ばすような論争をテレビで繰り広げていました。この強制的な措置は、結局一般市民の生活を苦しめ、経済を停滞させるものだと言う意見があれば、いや、インドの財政逼迫を先進国並みの税収で解決するためには、今回の英断はどうしても必要だった、特に麻薬取引など違法な経営で巨額の富を得ている連中のタンス預金を税の対象とするためにも、いつかはこのような措置を実行せざるを得なかったのだと。

 

4. カーンチプラムへ(サイジョーとの再会)                

 翌朝、再びホテルにヴィージェイが迎えに来て、我々はインドヒンズー教の7大聖地の一つ、カーンチプラムに向かいました。ここも前回と違って一部に高速道路が通っている。途中、ヴィージェイは、ここが、ラジブ・ガンジーが爆弾で暗殺された場所だと言って、道路ぎわに立っている記念碑を指さしました。ガンジーとともに国民会議派を率いてインドの独立を勝ち取った、当時の首相ネルーの娘、インディラ・ガンジー首相も暗殺されましたが、その息子がラジブ・ガンジーです。そういえば、日本で見たインターネットでも、今回通貨改革を実行したモディ首相についても、これだけの英断に対しては反対者も多く暗殺されるのでは、と言う記事を見かけました。しかし、インドの若者に絶大な人気のあるモディ首相は、安定した政権の今こそやるべきだと、周到な準備を重ねて、今回の通貨改革を断行したようです。カーンチプラムのホテルに着くと、2000ルピーに対してヴィージェイは100ルピー札5枚のお釣りをくれました。これは十分お釣りももらえる紙幣です。ホテルで落ち着くと、私は事前に日本からの電話で連絡してあった、友人、サイジョーに電話をしました。ようやっとここまで無事たどり着いたと。日本語のようなファーストネームのサイジョーはSaijo Vargheseという36歳のタミル人です。しかし元々の土着のドラヴィダ人というよりも、アーリア系インド人に特有の彫りの深い容貌も持っています。圧倒的多数を占める、この地域のヒンドゥー教徒の中で、敬虔なプロテスタントとして、父親の代から教会を維持して来ました。7年前に出会った時は、まだ初々しい青年で、父親の教会の手伝いをしているといった感じでした。しかし、今や彼は父親に変わって、教会を主宰する立場にあります。十二月、ちょうどクリスマス、教会も忙しい時期だと思って、サイジョーにはできるだけ迷惑をかけないよう、以前歓迎してくれた家族の皆さんにあって、挨拶できれば良いくらいに考えていました。ところがサイジョーは、我々がインドについた頃から、何度も電話してきたようで、カーンチプラムの3日間とその後チェンナイに戻る1日間の計4日間は、我々のために開けてあったと言います。ハリケーンの影響もあったのか、サイジョーからの電話はつながりませんでしたが、カーンチプラムのホテルからの私の電話はつながって、すぐホテルに駆けつけてくれました。早速ホテルで豪華な食事です。サイジョーはヴェジタリアンではないので、我々にチキン料理などをご馳走してくれます。やはり様々なスパイスに漬け込んだチキンは美味しい。サイジョーは食べながらも、自分で考えたプランを我々に話します。我々がカマコチピータというヒンズー教の施設も訪れたいというと、ではその日に一日、日曜日には自分の教会で集まりがあるので、その日に一日、そしてカーンチプラムのお寺巡りに一日、カーンチプラムからチェンナイには自分が車で送っていく、そしてチェンナイで観光して、翌日ニューデリーに飛行機で戻る我々のために、チェンナイ空港まで送ってくれるというのです。忙しい時期なのに、そんなにしてもらっては、と言うと、元々そのように予定していたから、そのようにしてくれというのです。我々が、このホテルでは一部屋に二つベッドがある部屋を予約できなかったから、今日はシングルベッドの二部屋だが、どこか良いホテルは知らないかと尋ねると、サイジョーはフロントと掛け合ってくれました。明日はいっぱいだ、しかし明後日はこのホテルでセパレートベッドの一部屋を予約できる。明日の分は自分が探すので任せてくれとのことでした。また、小額ルピーが手に入らないので困っている、と言うと、それも明日までになんとかするので待ってくれと言います。地元のサイジョー自身も困っているようで、ホテルの食事代は、クレジットカードで支払っていました。その日はサイジョーと話を咲かせた後は、私と娘は、それぞれの部屋でゆっくり過ごして旅の疲れを癒しました。
  翌日、ホテルに現れたサイジョーは、私と娘に、それぞれ1000ルピーにもなる10ルピー札の札束を渡してくれたのです。今回の、インドの抜き打ち的な通貨改革の状況下では、小額ルピーがなければ、カーンチプラムの町並みを自由に歩いてリクシャーに乗ったり、食事をしたり、ヒンズー寺院にお布施をして入場したり、チャイーやラッシーなどを立ち飲みしたりすることはできないのです。つまり、せっかく目的地に来ても、クレジットカードの使えるホテル内に閉じこもるしかないのです。地元の人も手に入れることの困難な大量の小額ルピーをサイジョーはどうやって手に入れたのだろう。ただただ我々は彼に感謝するばかりでした。サイジョーは、セパレートベッドの予約できるホテルも探していましたが、土曜日とあって、ホテル数の少ないカーンチプラムではなかなか空きがない、少しランクが落ちても大丈夫かというので、我々は構わないと答えました。以前のインド旅行では、男の一人旅なので、それこそ一泊五六百円の安宿を渡り歩いたものでしたが、今回は娘との旅行です。妻から、お父さん一人じゃないんだから、それなりのホテルに泊まってくださいよ、ときつく釘を刺されていました。荷物を持ってホテルを出た我々は、サイジョーの車に乗って、ホテルを探します。サイジョーは携帯で友人と連絡を取って、心当たりのホテルに向かいますが、まだチェックインできないとか、なかなか条件が整いません。そのうちお昼になったので、レストランで昼食をとることにしました。ほとんどがヴェジタリアンのカーンチプラムでは、ホテル以外でノンヴェジのレストランを見つけることは困難です。サイジョーは少し郊外に車を向けて、豪華なノンヴェジレストランに車をつけました。豪華というか、ノンヴェジレストランそのものが、特定の富裕層を対象としているかのようです。そこでは我々もチキンやマトンの入ったビリヤーニを美味しく味わうことができました。そうこうするうちにサイジョーに電話が繋がって、予約できたホテルに向かいました。確かにランクは落ちましたが、娘も、ああこれなら十分よ、と言ってくれました。明日はサイジョーの教会で信者たちの集まりがあります。我々も招待されていますし、サイジョーも、明日の朝、ホテルに友人を向かいにやらせるから、と言って教会に戻りました。
  サイジョーが去った後、私と娘は、早速リクシャーを捕まえて、私が2009年に訪れたヒンズー教の施設、カマコチピータが用意してくれた宿泊施設に向かいました。その宿泊施設で、私は一週間ばかりを過ごし、ここからヒンズー教の大学や図書館に通って、古代インド哲学について勉強したのでした。私は玄関にいる職員に、当時の管理人だった、バラタという青年について尋ねましたが、全く知らないようでした。宿泊施設のすぐ目の前には、カーンチプラムの中心的なヒンズー寺院であるカマクシアンマン寺院がそびえています。この寺院を主宰するカマコチピータもすぐ近くにあり、そこにはカーンチプラムのヒンズー教徒の頂点に立つ指導者であるアーチャリアが住んでいます。2009年に訪れた時は、チェンナイに住むアイアーさんは、悪性の癌でムンバイの病院に入院していた妻の看病のため、カマコチピータで私と会うことはできませんでした。その代わり、アイアーさんは、彼の友人メータさんを私に紹介してくれて、カマコチピータでの私の世話を頼んでおいてくれたのでした。おかげで私は、当時、まだ40代だった、若きアーチャリアに面会することができました。そのアーチャリアは、ユーチューブなどでビデオを見ると、少し太った50代のおじさんになっていましたが、それでも精力的に活動しているようでした。私は、彼ともまた再開できることを楽しみにしていました。アイアーさんもチェンナイから私と一緒にカーンチプラムを訪れて、アーチャリアに会うことになっていたのですが、カマコチピータのスポークスマンは、急遽、アーチャリアはポンディチェリーという、同じタミルナドゥ州の町に、巡業に行くことになった、と発表したのでした。カマクシアンマン寺院を見学した後、私と娘は、歩いてホテルに戻りました。道端でも日本でレンタルしたWifi と一緒にiPhoneを使うことができたので、グーグルマップを使ってホテルへの道を辿ることができました。昼はサイジョーにご馳走になって満腹でしたので、途中のパン屋でパンや飲み物を買って夕食にすることにしました。

 

5. サイジョーの教会とカマコチピータ                

  翌朝、サイジョーの若い友人ドミニクがホテルに我々を迎えに来ました。7年前にお邪魔したことのある教会はそのままでした。すでに地元のクリスチャンたちが大勢集まっていました。特に女性たちは色とりどりのサリーで着飾って来ていました。聖書に関する子供達の発表が終わった後、サイジョーが教壇に上がって話を始めました。地元のタミル語なので、内容はよくわかりませんでしたが、聞いている我々の横には、英語で通訳してくれる男性を配置してくれていました。最初は穏やかに話すサイジョーでしたが、そのうちだんだん熱を帯びて来て声も大きくなります。それにエレクトーンの演奏者が合わせます。すると真ん中あたりに座っている数人の男女がトランス状態に落ちいっているように思われました。以前訪れた時、まだ彼の父が主宰牧師だった頃、サイジョーは、父の説教にトランス状態に入る信者たちのビデオを私に見せて、少しオカルト的に見えるかもしれないけれどと、自嘲気味に話していました。しかし今では、父に変わって彼が信者をトランス状態にするほどの熱弁をふるっていたのです。最後はすべての信者が立ち上がってハレルヤの大合唱でした。この場面を見て、私はハインラインのSF小説「異星の客」を思い出しました。1960年代当時、ヒッピーの聖典と言われたこの小説で、主人公マイケル・スミスは、「汝は神なり」という重要な標語にたどり着きます。その中でスミスはある宗教教団と出会い、そこに彼の活動のヒントを得て行くのでした。その教団では、教主とともに信者たちが、大合唱の舞踏によって、トランス状態に入って行くのでした。  
  一通り説教を終えたサイジョーは、ここに日本の友達が来ていると言って私と娘を紹介し、私は一言挨拶することになりました。英語で喋ったものを、サイジョーがタミル語に通訳します。私は、世界中には様々な宗教がある。日本にも、仏教徒、キリスト教徒、あるいは日本古来の神を敬う人がいる。それらの神々を敬う人々の心の中には、きっと共通の神が宿っているはずだ。それらを通じて我々は、お互いの心を通じ合うことができるはずだ、といったようなことを喋りました。私が強調したかったのは、キリスト教が全てではない、しかし私たちはそれぞれの宗教、あるいは無宗教であっても、それぞれの心を通じ合えるはずだということでした。それはともすればイエスキリストを信じるサイジョーたちの気持ちにそぐわない言い方でした。私は喋った後に、どの神も信仰していない自分を防御するような自分の言い方に恥じ入るような気持ちになりました。このことは、今回の旅で感じた大きな問題なので、また後で詳しく述べることにします。
  集会が終わると、私と娘の周りに多くの若い男女が集まってきました。彼らは、片言の英語で日本のことを色々と聞きたがります。お互い言葉が聞き取れないと、持っている携帯で単語を綴って、見せてくれます。ああそういうことかと、了解するとみんなが笑顔を見せます。インド人の公的言語は、何十種類もあります。政府がインド全体の共通語としているヒンズー語とて、南インドではほとんど通じません。むしろ英語の方がインド全体の共通語と言えます。リクシャーの運転手も片言の英語が喋れないと、高い収入を得ることのできる外国人のお客を獲得することはできません。それでインド独特の発音による、英語が巷で使用されているのです。しかしこれは、日本における英語環境よりずっと有利なのです。日本では中学から長い間英語を勉強する割には、英会話が上達しません。日本の英語教育は、読み書きが中心でした。それはそれで良かったと思います。しかし日本人は、読み書きの文法にこだわってスマートな英語を話そうとするあまり、長年英語を勉強させられたにもかかわらず、会話が苦手なのです。だがインド人は違います。単語を並べただけでも、その時の会話の雰囲気で英語が通じてしまうのです。インドは州の独立性が強く、グジャラート州はグジャラート語、ケーララ州はマラヤーラム語、タミルナドゥ州はタミル語とそれぞれの言語と一体となった文化圏を保っています。だからこそインド全体の共通語として、特に知識階級は、英語が柔軟に話せるようになるのです。教会とは別れて、サイジョーの自宅に伺いました。サイジョーのお母さんが我々に美味しいチキンとカレーをたっぷり作ってくれました。サイジョーの奥さんとまだ2歳ほどの可愛い娘さんも出迎えてくれました。前回お会いした彼の父親は、ここから飛行機で1時間ほど離れた、西海岸のケーララ州に出張中で不在でした。食事を終えてサイジョーの家を立ち去ろうとする時、彼の母親は、私と私の娘の前で、おそらく我々の旅の安全と、これからの幸せを祈ったのだと思いますが、タミル語で真剣に祈りを捧げてくれたのでした。それはキリスト教の祈りというよりは、もっと土着的、伝統的な祭祀に基づいた何かのようにも思われました。
  その後、サイジョーは我々を再び最初泊まったホテルに車で送ってくれました。今度は一部屋に二つのベッドがある快適な部屋です。サイジョーも部屋を確認してくれた後、明日の朝、再びチェンナイまで車で送っていくと言って、帰っていきました。サイジョーは、今日の午後、我々がヒンズー教の施設、カマコチピータを訪れることを知っていたかのようです。ところがそのカマコチピータですが、我々がそのホームページで調べた住所をグーグルマップで検索したところ、以前とは別のところに位置していたのです。以前のピータはカマクシアンマン寺院からそれほど遠くない場所にありました。簡素な施設なので、施設をより充実させるために移転したのではと思いました。アイアーさんの自宅を訪れた時、そのことにも触れたのですが、彼は怪訝な顔をして聞き取り、何か他の話に移ってしまったような気がします。まあいいや、実際行ってみればわかる、ということで、リクシャーの運転手に、事前にコピーしておいたグーグルマップを見せて、そこへ行ってくれと頼みました。運転手は、忠実に地図の場所で我々を降ろしました。ところが周辺は一般の住宅ばかりで、どこにもそれらしき建物は見当たらないのです。娘と私は、たまたま玄関に出ていた若者たちにカマコチピータはこの辺のどこにあるのかと聞きました。英語のわかる家族を呼んでくると家の中に入りましたが、女性の方が出てきて、それならあっちの方だと行って、道順を教えてくれました。しかしその方向にいくら進んでも、それらしい場所は見当たりません。向こうからきた若い女性のグループに聞くと、それは逆の方向だ、これから自分たちもそちらに向かうので乗り合いのリクシャーに乗りましょうと、大型のリクシャーを捕まえて一緒に乗ります。料金は乗り合いだから10ルピー払えば良いと教えてくれました。街中まで戻ってリクシャーを降りると、一人の女性が、私はこちらの方だからと言って、他の女性たちと別れて我々を歩いて案内してくれます。そうすると昨日行ったカマクシアンマン寺院の方に向かいます。その若い女性もヒンズー教徒で、現在、アーチャリアは、ポンディチェリーに巡業中だと知っていました。ああ、やっぱり元あった場所に、今のカマコチピータもあるのだ、と思いました。彼女と別れて、我々は近くのピータを訪れました。昔と変わらない簡素な建物がありました。ここは娘に見せたい場所でした。観光客用に豪華に飾っているわけではない。昔と変わらない簡素で質素な祈りと思索の場所でした。アーチャリアに付き添って巡業先でプージャという祈りの行事をするために、ほとんどの従者たちが留守にしていました。私が前回、アーチャリアと会談した部屋への入り口は閉じられていました。私は娘に、マハーチャリアの像やプージャや講義が行われる場所を案内した後、入り口に戻って、何がしかの寄付を行いました。この施設は、古代ヴェーダの哲学者、シャンカラを初代アーチャリアとする、祈りと思索の場所なので、シャンカラの聖なる場所、シャンカラ・マット(Shankara Mut)とも呼ばれています。ですからシャンカラ・マットで、グーグルの地図を追うと、確かにこの場所を指しています。しかし、メインの正式名称は、カマコチピータKamakoti Pitaなのです。ホームページでもそのようになっています。しかし、ホームページのContact usに掲載されている住所で検索すると、我々が探し歩いても見つからなかった場所を指し示すのです。  
  アーチャリアには会えませんでしたが、娘に、この質素でひんやりとした、落ち着いた空間を見せることができました。帰りは再び、娘のグーグルマップをたどりながら、歩いてホテルまで戻りました。

 

6. 再びチェンナイへ(サイジョーの苦悩)

  翌朝、サイジョーと彼の若い友人ドミニクは、ホテルまで車で来て、我々をチェンナイまで送り届けてくれました。我々が事前に予約しておいたホテルに荷物を置くと、彼らは有名なマリーナビーチに連れて行ってくれました。ここは前回もサイジョーが私を連れて行ってくれたところです。この果てしなく長い海岸線と押し寄せる波、抜けるような青空、サイジョーにとっても落ち着く場所なのかもしれません。多くの人々が砂浜や海岸線で楽しんでいました。そのあとはホテルで休憩して、別のホテルに宿泊しているサイジョーが夕食の頃我々を食事に誘いました。今まで冗談交じりに我々を楽しい会話に引き込んでいたサイジョーが、この夜は神妙に自分の現在を語るのでした。自分が主宰している今の教会は、父の代から信者を増やしてきて、今では6000人を超えている。しかし、様々な嫌がらせも受けるようになった。自分の車は、今まで4台も何者かに壊された。刺客のような人物が、自宅にドアを開けて侵入しようとし、自分の身に生命の危険を感じたことも度々ある。そういう話を神妙にするのです。そういえば多々思い当たることもあります。というのも、昨年の七月ごろまでは、彼とはフェイスブックのメッセージ機能を使って、メールやビデオチャットをやりとりしていましたが、その後は私から話しかけても、全く応答できなくなったのです。私が十月に予定していたインド旅行が行けなくなったのでまた行けるようになったら連絡すると言ったメールに対して、Ok, uncle.と答えてきたのが最後でした。南インドでは、年配の男性には親しみを込めて、おじさん、というのかもしれませんが、前回のインド旅行でも、彼は私のことを、アンクル、と慕ってくれて、今回のようにチェンナイの飛行場まで車で送ってくれました。その時、彼は、アンクル、何か人生にとって大事なことを教えてくれと、私に言ったのでした。その時、私はハインラインの「汝は神なり」の考えと似たようなことを話した覚えがあります。サイジョー、君の外に神が存在するのではなく、君の心の中に君の神が存在する、それをいつか見出し、大切にしてほしい、と。しかし、それから7年たった今のサイジョーは、地元のプロテスタント教会の、立派な牧師になっているのです。もう、彼の父の下で働くやんちゃな青年ではない、6000人の信者を擁する教会の主宰牧師なのです。6000人と言っても、この地で圧倒的多数を占めるヒンズー教徒の数に比べたら、微々たるものです。この地にキリスト教普及の基礎を築いた彼の父親がどのような方法で信徒を確保してきたのか、外部の我々にはわかりません。そこには異教徒との様々な確執があったことと思われます。前回のインド旅行の私の目的は、カマコチピータというヒンズー教の施設で古代インドのヴェーダの教えを学ぶことでした。サイジョーとの出会いは、私がチェンナイからバスでカーンチプラムに着いた時、そこからピータまでリクシャーに乗ろうとした時に始まります。私を外国人とみたリクシャーの運転手が法外な値段を要求したので、口論していたら、たまたま近くにいたサイジョーが間に入ってくれて、妥当な値段に運転手を説得させたのでした。そしてその時、また何か困ったことがあったら自分に連絡してくれと言って、名前と電話番号を教えてくれたのでした。私は施設が与えてくれた宿泊施設に泊まって、ヴェーダの勉強をしていましたが、旅の寂しさからか、サイジョーに連絡を取ってみたのです。すると彼は、宿泊施設までオートバイでやってきて、私を街中のレストランや彼の教会へと案内してくれたのでした。したがって、彼は私がヒンズー教の人々と連絡を取り合ってこの地にやってきたことを知っていました。父親がプロテスタント教会を主宰している限り、私にも信者になってほしいという気持ちはあったかもしれません。事実、その当時、今のアーチャリアの先輩のアーチャリアが、ある殺人事件に間接的に関わっていたとして訴えられたことがあり、地元の新聞でも、現在裁判が続行中だと、大々的に報じられていました。サイジョーは、そのことを私に耳打ちしたことがあります。また、当時私が教会を訪れた時、父親はすぐに写真を持ってきて私に見せました。それは教会を地元のヒンズー教の重鎮らしき僧侶が訪れてきた時の写真でした。父親は、その写真で、他宗教の高僧でさえ自分たちを表敬訪問するのだと、示したかったのかもしれません。しかし、彼はヒンズー教寺院に、お返しの訪問をしたのかどうかは明らかにしませんでした。おそらく行っていないと思います。ここが宗教というものの難しい問題なのです。ヒンズー教では、特にヒンズー教でなければダメだという考えはありません。仏教徒、キリスト教徒、イスラム教徒、それぞれの神を敬うことに、こだわりはありません、しかしキリスト教は違います。イエス・キリストの苦難を理解することが、人類すべてのあるべき姿だというのです。ですからキリスト教信者以外の人々は、本来、キリスト教の信者にする対象としてみなされることになります。それを一概に、排他的、一方的な考え方だと批判することはできません。それがキリスト教の本質に関わることなのですから。


  私は大学時代、カトリック研究会というサークルに入っていたことがあります。当時哲学的な議論では、かなり進んだサークルでした。もちろん会員はすべてクリスチャンです。しかし私と私の先輩であった友人だけは、どの宗教にも属していない、ただ哲学的な興味で入会した会員でした。会は、井上忠という教養学部のプラトン哲学教授と押田成人というドミニコ修道会の神父が指導していました。押田さんは、もう亡くなりましたが、八ヶ岳の山荘で清貧な生活を実行し、無について、突き詰めて考えられた方です。我々会員は、夏休み、その山荘を訪れて、押田さんの講義を聞いたり、みんなで議論したりしました。いつもは茶目っ気のある、人懐っこい押田さんでしたが、講義の時は、黒板のチョークを叩きながら、ドイツの哲学者フォイエルバッハを、顔を真っ赤にして批判していたのを覚えています。彼は戦時中軍隊で九死に一生を得るなかで、啓示的な体験をして、キリスト教の信者になったといいます。我々に山荘で教えたり、坐禅を一緒に組んだりしていた頃は、まだ彼が「無の行者」としてマスコミで有名になる以前の時期でした。山荘では、クリスチャンとして、みんなが押田神父と輪を作ってロザリオの祈りを行います。そんな時、信者ではない私と友人は、側で頭を下げて祈りの終わるのを待つしかありませんでした。そんなことが続いた、ある夜、押田さんは寝静まった我々の別棟の庵を訪れて、障子戸越しに、すまなかった、許してほしい、と我々に小声で話しかけたのです。それだけでした。沈黙が続き、我々は押田さんの影を障子越しに感じるだけでした。そして彼は自分の庵に帰って行きました。キリストを信じていない二人にどう対応していけば良いのか、押田さんは悩んだことだと思います。信者にしなければいけないというよりも、信者にすべき対象者として我々を見るのがキリスト教なのです。キリスト教が特別排他的だというわけではない、キリスト教がまさしくそのような宗教なのです。だから押田さんは悩んだ。自分の山荘に二人の部外者がいる。部外者と言って良いのか。ここにいるのなら、私は彼らに同房になれと語りかけるべきではないのか。そこで彼の心の中ではどういう結論になったのかはわかりません。ただただ我々二人に頭を下げたのです。
  横道に逸れてしまいました。しかし食事をしながら、自らの苦悩を話すサイジョーに、ふと私は学生時代に出会った押田神父のことを思い出したのでした。サイジョーの苦悩は押田神父の苦悩と同じようなものではないのかと思います。まだフェイスブックで彼とやりとりしていた頃、彼は私に、アンクル、あなたは神を信じているか?と問いただしてきたことがあります。それに私はどういうわけか、答えなかったようです。フェイスブックに記録が残っていないのです。しかし今考えてみると、私の沈黙が、彼には大きな不安ではなかったかと思います。アンクル、あなたは私に教えてくれた。人はそれぞれ心の中に神を宿している、それを見いだすことがそれぞれの人生でもあると。アンクル、あなたはそれを見出したのか、それはイエスキリストとは違うのか、そういう問いを突きつけられているように思えてきます。サイジョーは、私がヒンズー教の施設で勉強していたことを知っています。それでも彼は私をアンクルと慕ってくれます。そこには宗教に縛られない人格同士の交流があります。サイジョーは決して面と向かって私がキリスト教の信者になるべきだとは言いません。私たちの人格上の付き合いを尊重しています。しかしだからこそ彼の苦悩は大きいのです。
  この時の、チェンナイでの最後の夕食のテーブルでは、サイジョーの目の前に私の娘が座っており、サイジョーの苦悩を真剣に聞いていました。サイジョーは36歳、娘は32歳、もうじき69歳になろうとする私は、娘の横に座っていて、思いました。ああ、きっとサイジョーは、娘が目の前にいるから、自然に彼の苦悩を話すことができたのだ、と。娘が今回インドを訪れることができたのは、今の職場をやめて、長期休暇が取れたからでした。今まで三度も転職をして、過酷な職場環境を経験してきた娘は、会社のためにスマートホンを四六時中チェックしながらの生活に終止符を打たなければと深刻に思ったといいます。インドを旅行しながら、ああ、会社からのメールや電話がかかってこないことがどんなに心安らぐことかと話していました。今度の職場は、それなりに福利厚生がしっかりしていて、職場に過度に束縛されることはないといいます。サイジョーと私の娘は、苦悩のあり方は違っても、若い者同士通じるものがあるのかもしれないなと思いました。
  それにしても、私は、老アーチャリアを訴える裁判沙汰、サイジョーのフェイスブックからの離脱、サイジョーの車の破壊や身の危険、カマコチピータのグーグルマップでの偽りの場所表示など、この地での深刻で不可解な事実に注目してしまいます。宗教対立が北部インドほど激しくはないと思われた南部でも、やはり一部の人々にとっては、異宗教に対して過激な行為をせざるを得ない状況が発生しているのだろうと推測してしまうのでした。
 今回インド旅行を始めるに当たって、私自身自問しました。私はあくまでもヒンズー教の教義の中に、古代インド哲学の神髄を見出そうと、アイアーさんからの指導を受けながら勉強してきた、だから、アイアーさんと再開できることが、今回の旅の一番の目的であるはずだ、すでに一教会をあずかるサイジョーに迷惑をかけるわけにはいかないのでは、と。フェイスブック等での連絡が途絶えたので、現地の教会に寄って挨拶するくらいでいいと思いましたが、直前になって日本から直接彼に電話をして、旅行日程を教えてしまったのです。すると彼はインド旅行の当初から私に何度も電話をかけて、心配してくれたようなのです。ハリケーンの影響か何かで私に電話は通じませんでしたが。彼は私たちがチェンナイに到着した時から、我々の旅行を手助けしていこうと準備をしていたようなのです。しかし我々は、チェンナイ到着後はアイアーさん宅を訪れることになっていました。アイアーさん宅でも、その後我々がカーンチプラムを訪れてまたチェンナイに戻って来る場合の交通手段を心配してくれて、知り合いの運転手をよこしてくれたのでした。しかしアイアーさんには、カーンチプラムで以前出会った友人に世話になっているとだけ答えたのです。友人とは誰なのだろう。おそらくサイジョーの教会の名前を伝えれば、サイジョーの立場はアイアーさんたち家族にはすぐ分かることでしょう。アイアーさんたちはそこでどう反応するのか、我々の目の前では否定的な見解を述べることはないかもしれません。しかし私には、今回の旅で友人サイジョーの素性をアイアーさんたちに明かすことはできませんでした。そのことが実は、今回の旅の大きな問題点なのです。ですからこうも詳しく述べてしまいました。我々の大切な友人サイジョーの家族も、アイアーさんの家族も、お互いの宗教を超えて、交流しあうことができれば、それは理想でしょう。しかし、難しい問題です。だが、私はいつかアイアーさんへの手紙で、この我々の苦しい思いを話さなければと思っています。彼はきっと理解を示してくれることでしょう。

 

7. チェンナイからニューデリー、そして帰国

 翌朝、サイジョーとドミニクは、ホテルに車で来て、我々をチェンナイ空港に送ってくれました。遅れてホテルに来たので、我々は少し心配しましたが、そこはチェンナイを知り尽くしたサイジョー、裏道をぐんぐん飛ばします。面白いのは運転席のサイジョーだけがシートベルトをしているのです。我々につけろとは言いません。運転席だけがシートベルトを必要としているという考えなのでしょう。しかしすごい運転です、サイジョーにとっては、道路の二車線が三車線に、三車線が四車線に見えるかのように、車と車のきわどい間を縫うように飛ばしていきます。私は思わず硬直してしまいましたが、娘は、私はもうサイジョーに命を預けているのよ、と言って平気な顔をしています。いや確かに無謀な運転というよりも、すごいテクニックです。なんと予定時間に無事空港に到着したのです。サイジョーの度重なる手助けと心配りに、我々はどのくらいお礼をすべきか話し合いました。娘はあまりたくさんお礼をしても、かえってサイジョーの心からの親切に答えないことになると判断して、今までサイジョーが払ってくれた金額に対するそれなりのルピーと、我々二人からの心からのお礼として日本の一万円札を封筒に入れて渡しました。そして強く握手をして別れました。
 空港で手続きを済ますと、アイアーさんの娘、プールナさんに無事チェンナイ空港に着いたことと、今までのお礼のメールをしました。そうすると、今回はハリケーンの来襲で満足いくもてなしはできなかった。ぜひまた訪れてほしい。デリーに戻ったら政府系のDilli Haatというおみやげ屋さんがあるから寄ってみては、と教えてくれました。プールナさんには事前に細かいスケデュールをメールしていたので、我々がニューデリーで買い物する時間があることを知っていたのでした。実際、Dilli Haatで、我々は多数の土産物を買うことができました。
 ニューデリーにはほぼ定刻に到着しました。空港に荷物を預けて、地下鉄でニューデリーの市街に向かいました。地下鉄は日本の援助もあったようで、快適でした。アナウンスもわかりやすいし、電車が移動する様子の表示も、なかなかモダンでした。地下鉄を出ると、リクシャーでガンジー記念博物館を訪れました。カンジーが最後の時を過ごした知人の邸宅跡に建てられており、中庭には、ガンジーが暗殺された場所に記念碑が建っていました。静寂で落ち着いた敷地内を歩きながら、インドはやはりガンジーを抜きにしては語れないなと改めて思いました。この何の変哲も無い普通の弁護士が、やがて様々な運動や政争に巻き込まれながら、自らも成長していく様を、我々は多くの伝記や書物で知ることができます。彼の成長の源は、彼の母親の慈愛と大地に根付いたインドの伝統であると、ガンジー自身も自伝で述べています。
 ところで今回の旅行で改めて感じたことがあります。それは、カースト制の名残とも言えるような人々がやはり存在しているということです。アイアーさんの自宅で、時折直立不動で我々の前に立つ人物を見かけました。車から我々の荷物を運んだり、帰るときには車に荷物を積み込んだりしてくれました。私は、アイアーさん宅の運転手なのかなと一瞬思いました。しかし、アイアーさんは、我々のために何かをしようと寡黙なまま、構えているその人物を我々に紹介することはありませんでした。しかし私には影のように我々のそばに立っていた、穏やかで従順そうな彼の姿が、今も頭に焼き付いています。サイジョーの家でも、サイジョーの娘の子守をするために突如現れた若い女性がいました。しかしサイジョーや彼の妻は、彼女を我々に紹介することはありませんでした。明らかに家族とは違う存在、家事を手伝う別の存在といった感じでした。
 我々は、カースト制の負の部分に目をつむることはできません。しかし、我々外部の者は、カースト制のすべてについて知っているわけではありません。巷の民主主義の、ありきたりの自由平等の考え方が、カースト制について深く考えることを遮断しているからです。カースト制については、ガンジーは、インド憲法草案者のアンベートカルと執拗に論争を続けています。アンベートカルがカースト制度をインドの悪習として捉え、インドは西洋の自由平等と民主主義社会を受け入れ、発展して行くべきだと唱えたのに対し、ガンジーは、西洋の民主主義を一概に否定はしませんでしたが、その自由平等の名の下での、不平等や貧富の差の拡大をその当時から警戒していたのでした。そしてカースト制度下での理不尽な不平等を批判しながらも、インド古来の伝統的な考え方に依拠するカースト制度そのものの意味、そこでそれぞれの人々が、本来の自分を見出す手立てともなる社会システムを否定することはしなかったのです。もし、ガンジーがアンベートカルと同じように、カースト制度を全面的に廃して、西洋民主主義を礼賛するだけであったなら、私は、ガンジーをよりよく知ろうとは思わなかったでしょうし、インド古来のヴェーダ思想を深く学ぼうとも思わなかったことでしょう。
 私が今回で三度も訪れることになったカーンチプラムのカマコチピータ、そこで古代ヴェーダ哲学者シャンカラの哲学を受け継いできた、アーチャリアたち。特に第68代マハーチャリアは、明晰な頭脳と包容力ある人格で古代インド哲学を現代へと受け継いできた稀な人格でした。ある日、彼とガンジーは一夜を語り合い、ガンジーはグジャラート語と英語で、マハーチャリアは、サンスクリット語と英語で話したと言われています。ガンジーはのちに、その時のマハーチャリアとの会談は、自分にとってとても有意義だったと語ったそうです。前述したように、100歳まで生きたそのマハーチャリアに師事して、今92歳になるアイアーさんに再会できたということは、私が今回のインド旅行で何よりも果たしたかったことでした。そしてサイジョー、彼はまだ私の息子や娘と同じ世代です。娘にとってもアイアーさんの家族やサイジョーの家族と交流できたことは、これからの人生にとって大きな意味を持つことだと思います。アイアーさんは自分の孫のように娘を可愛がってくれました。サイジョーは、娘には私以上に気を許して話し合ってくれました。インドでも日本でも若い世代が、我々年寄りの知らなかった可能性をも秘めて、これからお互いの国を理解していくことでしょう。今回の旅はそのための橋渡しのような旅でした。もちろん私とてまだやるべきことはあります。アイアーさんも俄然元気を取り戻して、私や娘に長い手紙を書いてきています。娘にはあなたのおじいさん(your grandfather)からだと言って。
 巨大ハリケーンや通貨改革によるルピー取得困難な中、こうしてインドの友人たちのおかげで無事楽しい10日間のインドを体験することができました。しかしそれだけで終わってはいけない。サイジョーの苦悩や、カースト制の問題は、我々が人類として、あるいは人間の未来として考えていかなければならない、重要な問題なのです。本来過激な対立の少ない南インドですが、しかし深刻な宗教対立は今なお世界中で続いています。その深さを理解しない限り、我々は今起きている世界の出来事の半分も理解できないのではと思います。これからもインドの友人たちとのメールのやり取りや相互訪問によって、様々な問題を語り合い、相互理解を深めていければと思っています。

iyerfami                 

アイアーさんの家族とともに(14/12/2016、アイアーさんの自宅で)

saijo             

サイジョーの教会で(18/12/2016 著者の右側がサイジョー)

ganji

ニューデリーガンジー記念博物館(20/12/2016)

                                                                                                                 (04/01/2017)           
                                                                                                                                   冒頭へ