Top 2007インド旅行記( 1 2 3 4 5 6 7 8 9 ) 大野先生へ
インドへ
最初にインドへ旅立ったのは2007年7月13日、成田からJALの格安往復券でした。エコノミークラスで8時間の飛行はちょっとしんどいものですが、まだインドは観光シーズンではない雨期なので席はがらんとして、空いている横の席も使って、寝そべることができました。夜9時ごろニューデリー空港に到着、頼んでいた送迎タクシーも見つかりホテルまで連れて行ってくれました。まずは無事到着を家族に連絡してホテルで休みました。
翌日はデリー市内を見学して夜は寝台列車でヴァナラシに向かうことになっていました。
駅のクロークに荷物を預けようと思いましたが、駅に行くまでに狡猾なオートリクシャの洗礼を受けてしまいました。重い荷物を引っ張った日本の観光客は絶好のカモだということです。日中の暑さもあって結局観光地をそのまま高い値段で回されることになりました。
中心街のコンノートプレイスなどは自分の足で動いたのですが、それでも暑さには耐え切れず、再び高いリクシャに乗るという具合です。しかし安易に高い額を払うと、他の日本人観光客にも迷惑をかけます。だんだん値切れるようになりましたが、それでもニューデリーの運転手は最悪でした。ただ最終日に再びデリーに戻ってきたときの運転手は例外で思い出深いものでした。それについては後で触れます。移動に疲れたときはデリー門前の公園や国立博物館の中でゆっくりと休みをとりました。
ヴァナラシへの寝台急行はニューデリー駅を夜の8時に出発でした。インドの駅には改札口はありません。直接ホームに入って列車に乗ります。指定券がある場合、ホームや列車そのものに指定券を買った人の名前が貼り出されます。それを確認して乗り込むのです。しかしどの列車がいつ、どのホームに入るのかはほとんど表示がないのです。これには戸惑いました。発車直前の女性のアナウンスを聞き取るしかないのですが、その英語が非常に聞き取りにくい。駅員に聞いても、一応の発車予定のホームはわかるのだが、直前になってホームが変わるかもしれないので、アナウンスを良く聞くようにと、答えが返ってきます。それに予定通りに電車は到着、発車しないのです。これには初めての観光客はストレスがたまります。いろんな人に聞いて1番ホームだと思い待っていると、直前になって12番ホームだといわれて、急いで駅の端から端までかけていきました。なんとか滑り込んで指定された寝台車に乗り込むことができました。同席したのはニューデリーの息子に会って、これからヴァナラシに帰る老夫婦でした。息子は医者を営んでおり、もう一人の息子はドイツでやはり医者をやっており、むこうでドイツの女性と結婚しているといいます。大きなマンゴーを取り出し、食べろとすすめられます。半分でいいと答えるとひとつ食べろとむいてくれます。食べている自分を夫婦は満足そうにじっと見つめています。大きなマンゴーが一個12円ほどだといいます。インドの誇る果物だと。穏やかな良い夫婦でした。何よりも同じヴァナラシで降りるということに安心しました。というのも予定の時間から1時間半ほど遅れて到着しましたが、車内のアナウンスは一切ないのです。自分ひとりだったらとても到着駅を事前に確認することはできなかったことでしょう。
ヴァナラシの駅からはリクシャで仏陀が最初に説教を始めたサールナートに向かいました。40分ほどかかってついた場所は見るべき遺跡の隣の公園でした。ここで金を落とせということなのか、ここからは遺跡に入れないため、結局暑い日差しの中を遠回りして歩かなければなりませんでした。疲れたのでまず近くの博物館に入りました。ここに有名な若き仏陀の正座した像があるのです。残念ながら撮影禁止でしたが、端正で若々しく、精気に満ちたすばらしい像で、一時見とれてしまいました。そしていよいよ巨大なストゥーパのある遺跡に向かいました。暑い。仏陀が教えを説いた学校のような遺跡をめぐっているうちに突然左足がまったく動かなくなったのです。暑さと、疲労の中で、何がなんだかわからなく、とにかく左足がぜんぜん動かなくなったのです。よく考えると昨夜の寝台列車の冷房がかなりきつかったのを思い出しました。インドの寝台車はみなこうなのです。年寄りには足腰の関節に良くないようです。で途中からは毛布の上に持参したアメリカ軍が使っているアルミのサバイバルシートを巻きつけてようやくあったかくなりました。まだ旅のはじめなのにやばいと思いました。木陰を見つけて休んでいると、心地よい風が木々の間をめぐります。そうろと起き上がると、何とか歩けそうです。だましだまし歩きながら巨大なストゥーパを一周して外へ出ると、オートリクシャを見つけて予約しておいたヴァナラシのホテルへと急ぎました。その日はろくな食事もせずに早めに休みました。
翌朝、足の方はなんとか歩けるようになっていました。真夜中に雨が降ったのか、ホテルの前が水浸しなのでガンジス川の有名なダシャーシュワメードガートまで、人力車を頼みました。ガートは雨期なのか水かさが増していましたが、沐浴する人々であふれていました。チャイー(あったかいミルク紅茶)を頼んだ青年が、ガート近くの界隈を案内するというので、彼に重い荷物も託して入り組んだ路地を探検しました。狭い石畳の路地は周辺の石造りの家壁に囲まれて、暗くひんやりとして、ところどころにシバ、ヴィシュヌ、ガネーシャなどの神々の像が置かれて、花などが供えられているのです。やがて導かれるまま階段を上がると、マニカルニカーガートの死者の家にまでたどり着いてしまいました。二階家の暗い石造りの家の中に瀕死の人々が横たわっています。窓から下を眺めると男性の巨体が真白い布で覆われたまま薪の上で焼かれるのを待っています。顔はきれいに化粧され、まだ四五十台の頑強な相貌です。水にぬれていましたが、ガンジス川に浸す前は白い布を覆いつくす花々で飾られていたといいます。別の薪にはまだ煙がくすぶっていました。一日数体がここで焼かれるといいます。そして灰などはガンジスに流されるのです。入り口の老婆は家族一人ひとりの名前を聞きながら私の額に手を当てていました。そうすると別の男が薪代のために10ドル寄付してくれといいます。あの青年が連れてきたのであって、私は寄付を前提に見に来たわけではないといって、1ドルだけ置いてきました。青年はガンジスを見渡す屋上のレストランに連れて行ってくれて、そこで久しぶりの食事をしました。
青年には案内料として3ドル渡し、ガートを離れて今度はオートリクシャでヴァナラシ・ヒンドゥー大学に向かいました。その構内の寺院や博物館、そして大学でヒンドゥー教について話を聞きたいと思ったからです。それならとリクシャの運転手以外にトムクルーズに似た案内人が同行しました。大学構内のヴィシュワナート寺院を案内してもらったあと、トムクルーズは私を大学の事務所まで連れて行きました。しかし彼はそれ以上中には入れないのです。私は事務局の男に来意を告げ、持ってきた2枚の手紙を見せて、これをプロフェッサーに渡してほしいといいました。手紙の内容はこれからのインド社会はどうなるのか。これからの世界はどうなるのか。急激な経済発展の中でヒンドゥーの精神はどうなっていくのか。そんなこんなを書きとめてありました。事務局員は、これは大変なものと見たと思ったのか、2枚の手紙をホッチキスならぬ長いピンで丁寧に留めて、これを3階の、どこそこの何番の部屋のプロフェッサーに持っていきなさいと、わかりにくい英語とヒンドゥー語交じりで話すのです。私が何度も確認していると、外で待っていたトムクルーズ君をおいこら!といった感じで呼び込んで、この人をどこそこの部屋に連れて行きなさいと道順を伝えているのです。トム君は直立不動で聞いた後、私を案内して目的の部屋に連れて行き廊下で待っていました。私は哲学の教授に会いたかったのですがどういうわけか社会科学の、それもきわめて実利的な方面の研究の教授でした。というかヒンドゥーイズムの研究の総本山を標榜するこの大学も、徐々に実利的な研究部門に押されてきているなと感じました。哲学ならどこそこの別の建物だからと教えてはくれましたが、コルコタへ向かう寝台列車の時間も迫っていたのでオートリクシャに駅へ行くよう指示しました。途中、激しいスコールに見舞われました。すると運転手がビニールシートを渡します。それを体中に覆って雨水を防ぐのです。駅に近づくにつれて雨は上がったのですが、道路はひざ上ほどの水浸し、エンジンつきの乗り物は通れる状態ではないのですが、かまわず水の中を運転していきます。すると案の定エンジンが止まってしまいました。大丈夫かと聞くとノープロブレムとさりげなく答えるのです。運転手は私とトム君を乗せたまま車を水の引いた場所まで押していきます。相棒のトム君は手伝わず乗ったままです。そしてエンジンルームを空けると、そこからプラグを取り出し先端をフーフーと息を吹きつけて乾かしているのです。再びセットしなおすとなんとエンジンがかかったのです。その後は水の引いている裏道を回ってようやく駅に着きました。
今度の寝台車は始発ではないが、終着駅がコルコタなので、乗ってしまえば安心です。しかしなかなか列車が到着しない。ホームもわからない。あせります。やっと駅員にホームを確認してベンチに座ります。しかしまだ列車は来ない。結局1時間半遅れでやってきた列車に乗り込みます。同じコンパートメントには若い青年の男女が四五人、寄り集まってにぎやかに談笑していました。この時期めったに見ない日本人が珍しいのか、いろいろ聞いてきます。このコンパートメントはそれなりのインド人しか乗らないので安心してくれとか、優等生的に話します。確かにみんな良家のお坊ちゃん、おじょうちゃんといった感じです。日本人は宗教を持っているのかと聞かれるとやはり困ってしまいます。自分たちにはヒンドゥー教があるといわんばかりです。仏教、神道、キリスト教、いろいろあるが、主に冠婚葬祭に結びついた儀礼的なもので、信仰の対象としてはあまり広まっていないというと、じゃあ、日本人はヒポクラシーだというのです。そういうのは偽善的な行為だというのです。おう、若いのによく言うな。とちょっぴり感心しました。もう少し議論しようと思った矢先、学生たちはがやがやと列車を降り、2段ベットのコンパートメントは自分ひとりきりになりました。クーラーの効き方は前回ほどではなかったので、毛布を体に巻きつけて寝ました。途中かなりの豪雨に見舞われて、列車はなかなか動きません。どこかで土砂くずれでもあったのかな。このままだといつコルコタに着くかどうかわからない。場合によっては、チェンナイに向かう午後の飛行機にも間に合わないかもしれない。そうなるとこれから大幅な計画の変更になるかもしれないな。そんなことを考えながらも眠ってしまったのでしょう。朝、列車は約1時間半遅れただけで無事コルコタに到着。面白いのはこれから電車や飛行機にしても、大体1時間半遅れてしまうのです。この90分というのはインド社会では遅れることの許容範囲なのでしょうか。
7月17日の朝、列車を降りるとコルコタはすごい喧騒と暑さです。すぐにタクシーを捕まえて中心街へ向かいました。途中橋を越えるあたりで男が手を上げてタクシーを止めると、私のほうをチラッと見ただけで助手席に飛び乗りました。そして途中で降りていったのです。もちろん何らかの金を運転手に払っていました。こういうのもインド的です。本来のお客の後席には絶対座らせないが、開いている助手席には、同じ方向であればお客を乗せるのです。インドのタクシーでは時々このような状況に出会いました。コルコタでは半日ほどの時間しか取れなかったのですが、街の印象としては良かったと思います。娘にメールするために立ち寄ったネットカフェも他のどの街よりも安く、応対も丁寧でした。地下鉄の入り口では警官みたいな男が立って、荷物を全部あけて見せろといいます。この暑いのにここで荷物をバラすなんて消耗なことは勘弁してくれと、ごたごた言っていると、じゃあいい、もう行け、とあっさりと通してくれました。これもインドの特性でしょうか。地下鉄や空港、公的な建物などの入り口には最下層の者たちがやたらと入らないように必ず監視員がいるのです。テロなどに対する警戒だとも言いますが、むしろ一定の階層以外は入れないといった感じです。デリーの国立博物館では、館内でも銃を持った警備員が歩き回っていました。このコルコタの博物館も有名でぜひ見たかったのですが、この日は飛行機でチェンナイまで飛ばなければなりません。すごい渋滞の中、飛行場に間に合わず、せっかく取得した航空券がだめになってしまうのは避けたかったので、地下鉄でできるだけ空港に近づこうと思ったのです。地下鉄も満席でした。一時立っていると、三四十代の男がやおら立つとここに座れと身振りで言うのです。歩き疲れた私はお礼を言って座りました。男ははにかみながら少しはなれたところに立っていました。すぐ降りるわけではないのにずっと立っていました。これはインドでは例外的です。少しでも席が空いていたら、我先に体をねじりこんで座る現場を何度も見てきたからです。コルコタにはこうしてよい印象がこびりついています。もし再び訪れるようなことがあったら、ゆっくり滞在したい都市だなと思いました。
コルコタからチェンナイの空港に降り立って、大きな失敗をしました。正規のタクシー乗り場から正規のタクシーに乗ればよかったのですが、疲労と混雑から、白タクのようなものに誘いこまれたのです。若いアンちゃんでしたがそう悪そうには見えなかったので、まあ少しくらい高くても仕様がないなといった気持ちでした。引き込んだ若いアンちゃんと、白タクを所有する運転手の二人分の費用なので、確かに交渉の値段は高いのですが、早く宿を見つけてくつろぎたいという気持ちが先行しました。しかし空港を少し離れたばかりで急に車がとまったのです。前方で警官がチェックしているというのです。急いで降りろ、そしてあのオートリクシャに乗り換えろと、助手席に座っていたアンちゃんが叫びます。私は道路際にとまっていたオートリクシャにアンちゃんと一緒に飛び乗りました。オートリクシャの男とアンちゃんは顔なじみなのかすぐ意気投合し交代で運転したりして遊んでいます。私も不安になって、頼んだホテルの名前を再三言うのですが、わかったわかったといいながら、時折途中で通りの人にホテルの名前を聞きながら、街中をめぐります。そのうち暗くなってきました。前席の二人は猛烈なスピードで街中を遊びながら、なかなか目的地に到着しません。何度も怒ったのですが、相手は二人です。どこへ連れて行かれるかわかったものではありません。ようやくホテルを見つけて降りるときにはさらに上乗せの料金を要求されたのです。さあ、ここで大失態を演じたのです。金を払おうと思ったら財布がないのです。財布をどこかで落としていたのです。ずっと記憶をたどると、どうやら白タクからオートリクシャに乗り換えたときに、ズボンのポケットから財布がすり落ちたようなのです。こんなやくざな連中に財布を見つけてもってこいといっても通じるはずがありません。激しい怒りと絶望感に襲われました。しかし財布には8000円ほど入っていましたが、それ以外のカード類は一切入っていませんでした。ぐっとこらえて鞄から分散していた金を取り出し払うと、急いで宿へ入りました。宿はまあまあのものでした。
そして今回の失態の原因を落ち着いて考えてみました。まず空港の出口に殺到し、旅行客を狙う得体の知れない引き込みに安易につかまってしまったということ。これが第一の失態です。二番目は普段は紙幣しか入れない財布に小銭も入れて、財布が重たくなったため、ポケットからすり落ちやすくなっていたということです。最初は小銭や紙幣は適当にシャツやズボンのポケットに入れていたのですが、すごい汗ですぐに紙幣がグショグショになってしまいます。それで当面の額やコインは財布に入れていたというわけです。それに荷物も帽子や、バッグ、かばん、ミネラルウオーターなどタクシーの中でばらばらになっていました。急いで飛び出したときに、それらをわしづかんで移動したのも良くなかった。いざというときを考えて身の回りの荷物は二つくらいにまとめておくべきでした。それと第3番目、せわしい移動に疲れて、ゆっくり身の回りを整理する余裕がなかったということ。そこで思い切って、これから南下してぜひ見たかった、チタンバラムのナタラージャ寺院はキャンセルすることにしました。そしてこのホテルに2泊し、以降も同じホテルに二泊して、落ち着いてその町を巡り、またそこでこれからの旅の準備を万全にしようと気持ちを改めたのです。
翌7月18日の朝、本来はバスに乗ってそのまま南下していくはずでしたが、昨夜の考えのとおり、体調や余裕を持つことを考えて、オートリクシャをチャーターして再びチェンナイのこのホテルに戻ることにしました。マハーバリプラムには約1時間ほどで到着しました。入り口では証明書を見せながら自分は公式のガイドなので心配するな、十分案内するからと、63歳のガイドが申し入れます。いくらなのかと聞くと、アズユーライク。あなたの思う料金でよろし、というわけです。この言葉はインドの観光地でよく使われ、くせものの言葉なのですが、そう悪そうな男ではなかったので、頼むことにしました。ここはアルジュナの苦行とか海岸寺院とか一連が世界遺産なのでガイドがそれなりにいます。シーズンではないので観光客も少なく、彼は非常に詳しく案内してくれました。写真もグッドスポットを心得て私を入れたアングルでとってくれます。観光案内書にも現地のガイドを頼むと良いと書いてあります。確かに知らなかったことをいろいろ教えてはくれました。しかし基本的なことは大体日本で習得してきました。そういう意味ではガイドなしにゆっくりと遺跡に対峙するというのも大切なのかなと思いました。ガイドの言うなりに歩いて、喋り捲るガイドの説明を聞くというのも、なんとなくせわしいものです。以降、私はガイドを一切頼まないことにしました。
それにしてもよく説明してくれました。遺跡はこの前のTSUNAMIで大きな被害をこうむった。ところどころセメントで修復している。もともと海岸寺院などは一枚岩ではなく、岩石を積み重ねたものだが接着には貝殻を砕いて、すりつぶし、ペースト状にしたものを使用していた。古代のオールドセメントだ。などといいます。そして話の中に紛れ込ませるように、ガイド料としてだいたい30ドルほどもらっているとほのめかすのです。私は怒りました。最初聞いたときになぜ言わなかったんだ。そんな額は日本だって高すぎる。非常識だと。そういうとじゃあいくらだと払ってくれるのかといいます。3時間ほど、ガイドとしては適切だったので、10ドルくらいは仕方ないのかなと思いました。そうしたら間を取って20ドルだというのです。これもインドでの常套手段です。高く吊り上げて相手の言い分との間を取るというやつです。最後は言い合いになりましたが、ユーアーヒンドゥー。疑問文ではなく、肯定文で、あなたはヒンドゥー教徒ですよね。といった言葉が効きました。彼はじっと私の目を見つめて10ドルを受け取りました。10ドルでも高いのですが、まあガイドはこれが最後だと決めました。
食事を済ませると再びオートリクシャでチェンナイのホテルへ戻ります。帰る途中、これもいつものことなのですが、オートリクシャの運転手は私のほうを振り返りながら、ガイドにはいくら払ったのかと聞くのです。5ドルだというと納得したようでした。本当のことを言うと、高すぎるとか、何でそれに比べて俺のほうは安いんだということになりかねないのです。チェンナイには予定より早く戻れましたので、周辺のデパートを訪れて、娘にメールを送ったりしました。デパートといっても日本のように洗練されたものではないのですが、やはりタミールナードゥー州第一の都だけあって、にぎやかな町並みでした。ホテルのレストランの食事はヴェジタブルでしたが、なかなかおいしかった。ターリーの丸い器には、食べきるとまた次々に注いでくれるのです。真ん中にあるライスやプーリーと呼ばれる薄い揚げせんべいのようなものなどもそうです。いろいろな豆をうまくカレーと煮込んであります。ヨーグルトもすっぱくておいしかった。最後はぶつぶつした丸い仁丹のようなものがスプーンと一緒に出されました。これは何かと聞くとSOMYといって、さじ一杯口に含んで食べるとおなかの調子が良くなるのだと。確かに胃薬のような味がして、胃がすっきりするのです。客が少ないのでウエイターといろいろ話をします。やはり旅の孤独を身にしみで感じるころでした。
7月19日の朝、ぐっすり休んで、オートリクシャでバスターミナルに向かいました。到着するとバスの車掌が、カーンチ、カーンチと呼び込んでいたのでそのバスに飛び込みました。普通のバスは左側に二人がけ、右側に三人がけのいすが並んでいます。まだ空席が目立っていたので広いほうの三人がけにゆったり座りました。ところが出発間際には満席となり、三人がけはやはり三人がけとして大きなインド人でぎゅうぎゅうづめになってしまいます。二人がけのほうがまだ良かったのです。このバスに2時間揺られてカーンチプラムにつきました。つくと早速オートリクシャと交渉です。この有名な巡礼地は多数の寺院を案内するパックになっていて、前にはガイドと運転手が座ります。私は、多数のお寺を巡る必要はない。有名なカイラーサナータ寺院だけでよい。あとはカマコチにあるヒンズー教のインスティチュート(研究機関)に行ってくれと頼みました。リクシャの連中もその場所を知っていました。事前に得た情報では、カマコチピータはこの地に咲いたドラヴィダ文化、今からおよそ2500年前に栄えたヴェーダの教えを守り次いでいる神聖な場所らしいのです。周囲の住民もそれを認めており、広く集めた信者からの寄付で子供たちの学校や病院なども運営しているということでした。またヒンズー教の根幹であるヴェーダ哲学研究の南インドの中心地であり、カーンチプラムの街そのものを宇宙の中心として支えているのがこのカマコチピータだといいます。それほど古い歴史をもつ場所らしいのです。
先ず最初に訪れたカイラーサナータ寺院は以外に小ぶりでしたが、端正で白く塗られた上品なものでした。ここも観光客はぜんぜんいません。一人でゆっくり見回ることができました。そしていよいよカマコチピータです。オートリクシャは少し田園地帯を走り、やがてにぎやかな町に着きました。道路際にとめて、あそこが入り口だから入っていけ、われわれはここで待っているというのです。大きなバッグはリクシャに預けたまま、貴重品のかばんだけを持ってリクシャを降りようとすると、もうここから靴を脱いでいけといわれました。この施設はもちろん観光地ではないのですが、神聖な場所らしいのです。私は一人暑い中、はだしで道路を歩くと、並んだ店の間に何の変哲も無くほんの少しくぼんだ入り口がありました。少し暗闇の入り口をくぐり、先へ進むと、中は急に広くなり、ひんやりと涼しくなってきました。しかも静かで、快適で別世界に入り込んだ感じです。だれも侵入をチェックしない。そのままどんどん中へ入っていきました。大きな舞台のような場所があり、その上で子供や大人たちが瞑想したり、ヨガをしたり、ひそひそと話し合ったりしています。私を見ても特に珍しがらずに、そのままの行為を続けています。石造りの家屋はひんやりとして、ああいつまでもこの中にいることができたらなあと思いました。ところどころにこの施設の代々の指導者の写真や像が飾ってあります。迷路のようなところに入り込むと角に本当にかわいい小象が立っているのです。もちろん神の子ガネーシャの化身です。私もその前で恭しく挨拶しました。広い館内を歩き回っても、誰もとがめない、だれも注目しない、めいめいが自分の役割や課題を静かに行っているといった感じなのです。ただ、この静謐な空間、かわいらしい子象、瞑想に耽る人々、これらを是非写真に撮っておきたかったのですが、残念なことにここでは一切写真を撮ることは出来ないのです。外ではリクシャも待っているし、今日中にもっと南下してタンジャーブールまで行かなければならない。私は通りかかった男に実は日本から来たのだが、少し寄付をしたいといいました。そうしたら入り口に近い部屋に連れて行かれました。そこは教師として数人のグルが控えており、喜捨や教えを請う人たちに対応する場所らしいのです。確かに数人の信者らしき男女が教えを乞うていました。わたしはあいていた教師の前に進むと、事前に訪問の趣旨をメールしていたこと、きても良いという返事をもらっていたことなどを話しました。私が出したメールとそれに対する返事のコピーも見せました。そうすると教師はある男を呼びにやりました。その男も教師(グル)のようでした。眼鏡をかけてフランスの映画俳優ジャン・レノにそっくりでした。教師はジャンレノに、この方を最高責任者のところまで連れて行きなさいといいました。そのような判断が特別なのか、ジャンレノは目を輝かせて私を別の部屋へと案内しました。途中、自分も昔、日本に滞在したことがあるといいます。片言日本語もしゃべって見せました。長い廊下を通って、最高責任者、第69代アーチャリアの部屋へ到達しました。そこでもアーチャリアはある信者に教えを説いていました。ジャンレノがアーチャリアの耳元で何か話すと、信者は身を引き、私が彼の前に座らされました。英語はしゃべれないらしく、タミル語でジャンレノが私の来意などを伝えていました。大体の事を聞いたのか、自分がしていた首飾りをはずすと、私の首にかけてくれました。私は恭しく御礼をして、寄付をしたいと10ドル札数枚をさしだすと、アーチャリアは無邪気な顔で日本のお金は見たことが無いので、日本のお金は無いのかといいます。千円札があればよかったのですが、それは全部財布に入れて例のチェンナイで落としてしまいました。腹巻に一万円札は持っていたのですが、これは今後の旅でも必要です。やむなく全部ドルやルピーに換えて円の持ち合わせはありませんといったら、ああそうかとにこやかに笑います。その後私は帰国してから千円札5枚を送り、そこに印刷されている野口英世について説明した手紙を添えました。貧しい家に生まれ、苦学して医者になった彼が、貧しい人々を救おうとアフリカに赴き、黄熱病の患者を見ていたところ自らも黄熱病にかかって亡くなったと。それを読んだアーチャリアはいたく感激して、私が送った千円札を施設の事務所に飾ったということです。穏やかな雰囲気でしたが、どうも細かい議論が交わせる雰囲気ではありません、時間も迫っています。私は再び挨拶をして引き下がりました。
構内を歩きながら私はジャンレノに今回ここを訪れた思いを伝えました。そうすると彼はちょっと待ってくれといって、ある部屋に入ったままなかなか出てこないのです。私がもういいですよと言うために部屋へ入ろうとすると、西洋人の女性の信者が、穏やかに、ああ、そこにははいってはいけませんと忠告するのです。そして部屋の前には彼女だけではなく数人の信者が集まってきました。そのうちの非常に聡明に見える男が誰を何のために待っているのかと聞いたので、事情を説明して、もう余り時間が無いのだといいました。そうすると相手はいつまでにタンジャーブールにいかなければならないのか、バスで行くのか、列車なのか、切符は取ってあるのか、心配してくれます。ここから6時間近くバスで行くのでできたら明るいうちにタンジャーブールに着きたいといったら、それなら時間が無いと答えて、部屋の中に入ってジャンレノを呼びに行きました。ジャンレノはやっと出てきましたが何かを探していたようです。それは使い古された冊子で、歴代の責任者の写真とヒンズーの教えが乗ったもので、教えは英語だけではなく、何と日本語も入っているのです。日本人用というより、ここに住んでいた日本人の信者が、ここで印刷したものらしいのです。私はこの冊子と大きなマンゴーをもらいました。ジャンレノは私を会計係のようなところへ連れて行き、そこで寄付のドル紙幣を渡して記帳し、会計係は丁寧な領収書を書いてくれました。そしてジャンレノとはまたメールを交換し合うことを約束して、施設を出ました。ジャンレノは60代に見えましたが、後でメールで知ったのですが、彼は80歳でした。びっくりです。実際には眼も体のつやも輝いていてとても80代には見えませんでした。彼らは皆、敬虔な菜食主義者です。そんなところも関係しているのでしょうか。彼はインド国鉄を退職した技術者で、今でもアーチャリアに付き添って彼の身の回りの世話をしています。
さて、待っていたリクシャの運ちゃんにマンゴーは渡し、まっすぐタンジャーブールに向かうバスターミナルに向かってもらいました。運ちゃんの横の案内人の言うにはタンジャーブールへの直通バスは無い。チャンディガールという町で乗り換えるしかない。ここから30分ほどだというのです。私はそのチャンディガール行きのバスに飛び乗りました。ところが30分立ってもつかない。不安になってきて周囲の客に聞くとまだまだだといいます。こういうところもインド人のいい加減さです。結局チャンディガールへは1時間半くらいかかりました。まあ、行き先は間違えていなかったから良しとしなければなりません。チャンディガールはそれなりの大きな町でした。数十台のバスが並ぶバスターミナルに着くと、早速タンジャーブール行きのバスを探しました。それぞれのバスストップの番号など何も無いのです。係員らしきものに聞くとあの辺のバスだと教えてくれます。そしてそのバスの前に行ってタンジャーブールというと、乗れ乗れといいます。バスの表示はすべてタミル語でまったく読めません。乗って乗客に確認すると、あまりタンジャーブールという言葉は聞きなれていないようです。ガイドブックを出して指差すと、おお、タンジュー、タンジューといいます。そしてこのバスはカーンチプラム行きだというのです。ええ?それじゃあ、また来た道を戻るわけだ。とんでもない。動き出したバスの満員の中を掻き分けて、ストップ!ストップと大声で叫びました。車掌によると私が発音したような町がカーンチプラムの中にあるような物言いでした。私は再びバスターミナルに戻って暑い中、重たい荷物を持ってタンジャーブール行きのバスを探します。ようやく見つけたバスは超満員です。こんなのであと五六時間も揺られるとどうなることやらと不安が先行し、バスを降りて、リクシャを捕まえると近くにあるという鉄道駅へ向かわせました。駅に着くと係員らしきものに、タンジャーブール行きの電車はいつなのか聞きました。1時間後だが、すべて自由席でそれも超満員だといいます。疲れ果てた私にとっては酷な話です。列車もだめだ。万事窮す。デラックスバスのようなものがあると聞いたが、何とかならないか、エニーサジェスチョン?と聞くと、リクシャのアンちゃんとなにやら話していて、私をターミナルに連れて行くという。なんだ、別のターミナルがあるではないかと、再びリクシャに乗り込みます。リクシャはずいぶん走った後、なんだか高速道路に突っ込んでいきます。おいおいどういうことだと不安になりました。リクシャは高速道路の料金所の前で止まりました。そして係員に私を見つめながら何か話をしていました。係員は私に近づき、タンジョール?といいます。ヤアヤア、というと、ここで待っておけと、いすを持ってきて座らせます。これでやっとわかりました。デラックスバスのターミナルなどは無いのです。この料金所を通ってタンジャーブールに向かうデラックスバスを捕まえて私を乗せるというわけです。デラックスバスは通過しますがなかなかタンジャーブール行きはないようです。だいぶ時間がたった後、係員が呼び止めたバスはタンジャーブールの手前が終点のデラックスバスでした。終点のバスターミナルからタンジャーブール行きが出ているといいます。私はすぐ飛び乗りました。なかは数人座っているだけで後ろは空いています。夢のようなリクライニングバスです。おお、救われた。私はゆったりしたシートに深々と体をうずめました。前方のテレビではズンドコズンドコ踊り狂う、インド映画が上映されていました。そんな拍子に合わせるようにデラックスバスは高速道路を快適にひた走ります。通路の反対側には中年の男とその母親が乗っていました。私が行き先を確認すると、確かにこのバスは手前までだが、降りたら私がタンジャーブール行きのバスを探してあげるから安心しなさいといってくれました。彼は孝行息子らしく、サリーを着た老母がうとうとしだすと、彼女のリクライニングを最大に傾けていました。私も安心したのかうとうととしてきました。そのうち終点に着くと、私はこの男と母親のあとに付いてバスを降りました。ところがバスを降りたとたん、母親はその場で吐いてしまいました。リクライニングを傾けすぎたのがあだになったのかもしれません。息子は母親の背中を盛んにさすっています。するとジャパーニ、ジャパーニと呼ぶ声がします。私を認めると、別のバスに連れて行ってくれました。そしてバスに乗るとすぐ出発しました。どうやら携帯電話で連絡してくれて、デラックスバスが到着してから、私を拾ってタンジャーブールまで連れて行くよう手配ができていたのです。空いた座席もあって、このときは本当に感謝しました。タンジャーブールには日が暮れてようやく到着し、そこからリクシャでそれなりのホテルへ行ってもらいました。そうしたらホテルの従業員がその首飾りは?と怪訝な顔をして私を見つめるのです。そういえば私はカーンチプラムのあの施設のアーチャリアからもらった首飾りを着けたままだったのです。従業員にこれこれこういうわけで最高のグルからもらったのだというと、おお!と顔を輝かせるのです。そして思ったのは、ここまでバスで到達するまでの駅員や、高速道路の係員や、バスの車掌の親切な対応には幾分この首飾りが影響していたのかなとも思ったりしました。何の変哲も無い数珠だまのような首飾りですが、先端の結び方など独特です。なんだかこれが魔力を発揮したのかもしれないなあと、ひとりほほえんでしまいました。
さて、タンジャーブールについた朝は、ぐっすりと寝た充実感で目を覚ましました。ホテルの屋上に昇るとこの町全体が見渡せ、世界遺産、ブリハティーシュワラ寺院が聳え立っています。リクシャで早速寺院を訪れました。ここまで来るとさすがに観光客もほとんどいません。地元の信者たちが参拝に来ています。見るものを圧倒する大きな寺院です。近くにある博物館の神像たちも見ごたえがありました。街中を散策し、レストランで食事をし、ホテルに戻ってゆっくりくつろぎました。昨日ジャンレノからもらった冊子を読み返してみました。「誕生の目的は再び生まれ変わることを避けることである。」「動物はみな水平に育つが、人間のみが垂直に成長する。」垂直に成長する。インドの大地で垂直に成長する。「私たちが神の中へと探求していくのなら、神はまさに自己そのものとして私たちの中にあるということがはっきりするだろう。そのときすべてのカルマ(業)は私たちから剥落するだろう。しかしそのときまで私たちはカルマを義務的になさねばならない。」アートマンとブラーフマンの一致というヒンズー哲学の根幹を述べていますが、しかしそのときまで私たちはカルマを義務的になさねばならない、という言葉は意味深長です。
タンジャーブールの同じホテルにもう一泊して、翌7月21日は再びバスでマドゥライに向かいました。バスターミナルについて聞いてみると、デラックスバスも出るが、あと2時間後だといいます。マドゥライまでは2時間なので普通バスに乗ることにしました。今度は3人がけの席ではなく左側の二人掛けの席を取りました。普通バスなので途中いろんな人は入れ替わり、立ち替わりします。途中で子供3人を連れた母親が乗り込んできました。母親は二番目の子と3人掛けの通路側に座り、一番上の小学1年くらいの子は、一番下のまだ赤ん坊を抱いたまま、私の横に座りました。そして大きな目を見開いて私のほうをじっと見つめたままなのです。よっぽど出会ったことの無い顔だったのでしょう。私がデジタル写真を撮って液晶を見せてあげるとすばらしい笑顔をして喜びました。そのうち寝たままの赤ん坊を抱いたままこの子もうつらうつらしていました。すると少し騒がしくなりました。母親が抱いていた子供がバスの中で吐いてしまったのです。バスが揺れてかばんが吐いた汚物の中に転げ落ちてしまいました。ワッと叫んでみんなが注目し、また、濡れティッシュをだしてかばんを拭いている私をものめずらしそうに眺めていました。そんなこんなでマドゥライの町が見えてきました。最初に眼に入った立派な建物は高等裁判所と門に書いてありました。バスターミナルに着くと、そこからオートリクシャで予定していたホテルに向かいました。政府系のホテルで従業員の対応はそっけなかったのですが、堅実で安全なホテルでした。ようやく予定した今回の旅の最南端までたどり着いたというわけです。テレビをつけると大統領選挙でインド初の女性の大統領が選ばれたと報じていました。
翌朝ホテルを出るとタクシーやリクシャがよってきましたが、体調も良かったので歩くことにしました。町の中心にはミーナクシ寺院の馬鹿でかい4つのゴープラムが四方を囲み、その周りに町が形成されているので、町を歩いていても迷わないのです。4つのゴープラムの規模と色彩と細かくぎっしりと詰まった彫像は見事です。圧倒されます。靴を預けてはだしで中に入ると中庭に大きな建物があり様々な寺院や博物館で構成されています。ちょうど大きな鳳凰のような飾り物を神輿にしたてたようなものを大勢の信者が担ぎ出そうとしていました。朝早くからなかなか活気のある寺院でした。奥の院の入り口には番人がいて、ヒンズー教徒以外は入れないようになっています。しかし中心部の一部は広い博物館になっていて、この寺院の内部構造がわかるようになっています。博物館も見ごたえのある神像が陳列されていました。博物館を出て、薄暗く広い構内を巡っているとどこが出口だかわからなくなりました。ようやく明るい方角を見つけてたどり着くと、そこは蓮池を囲んだ広い空間でした。水は張っていませんでしたが、階段状の周囲で、地方から来た信者たちがめいめい休んでいました。私も木陰に座り込んで休憩しました。優しいかぜが肌をなでます。ミーナクシ寺院を出ると、路地裏の売店でお茶を飲みます。15円ほどで暑いミルクティーを飲むことができます。いわゆるチャイーというもので、沸騰したお茶と、これまた沸騰させたミルクを、何度も注ぎ返して混ぜて砂糖をたっぷり入れたものですが、暑い中を歩いたのどには、これが格別おいしいのです。地元の人はおそらく6円ほどで飲んでいると思います。
こうして元気を回復したので、再び歩いてパレスと呼ばれる大きな寺院の遺構を見学することにしました。イスラム建築とヒンズー建築を合体したような面白い遺構でした。やはり奥は博物館になっていました。一通り回って、イスラム式の大きな円柱が並ぶ中庭で休んでいると、私の前を青年が行ったりきたりするのです。日本人などめったに見ないのだろうと思っていたら、急に声をかけてきたのです。アーユーネイティヴ?というのです。あなたは原住民なのかと。これには苦笑しました。ミーナクシ寺院では思わず本殿に入ろうとしたら、ヒンズー教徒だけだと阻止されたのですが、ここでは、あなたはもともとここに住んでいる土着の人なのかと聞かれたのです。確かに私はアーリア人種には見えない顔です。アーリア人に追い立てられはるばるこの地へ行き着いたドラヴィダ人、ヒンズー教の真髄を守る民の一人と見られたのでしょうか。そもそも私がこの地を訪れたかったのは、タミル語を操るドラヴィダ人と日本人との何らかのつながりを発見できたらという気持ちがありました。その裏返しなのか、逆に現地の人からお前はドラヴィダ人ではないのかと聞かれたわけです。なんだかうれしい気持ちにもなりました。そして青年にケイムフロムジャパンと答えるとにっこり笑って納得したようでした。寺院を出るとおなかがすいたので近くのレストランで食事をしました。定食を頼むと、まず大きなバナナの葉っぱが目の前に広げられます。そしてコップ一杯の水。これは飲み水ではなく、これで手を湿し、葉っぱの上を水で湿すのです。そうするとウエイターがその上に様々な料理を小盛りにするのです。真ん中にはライスやプーリーを盛ってくれ、食べきったらどんどん継ぎ足してきます。このライスと周りのおかずを手で適当にこねて口へ持っていくのです。慣れるとこの食べ方が本当においしいのです。食事を済ますと少し歩いた路地裏にインターネットカフェを見つけました。ヤフーメールのボックスを開くと娘からメールがきていたので旅行の状況を報告しました。インドにはアイウエイというチェーン店がありますが会員登録などの手続きがややこしく、また英語で日本にメールを送ってもどういうわけか回線がつながらないのです。こうした小さな店のほうが日本語が使えたりする場合が多いのです。しかも値段も安い。一時間40円ほどです。電話だと1分60円くらいします。それもなかなかかかりにくい。メールを打ち終わると、ぶらぶらと歩いてホテルへ戻ります。途中タクシーのたまり場みたいなところで、明日の飛行場までの送迎を予約します。大体の標準をホテルで聞いていたので、例のごとく吊り上げた値段から徐々に下げさせて妥当な値段で折り合いました。これもインドの特徴ですが、私と値段の交渉をした当人が運転するわけではないのです。オートリクシャでも、タクシーでも、たまり場では、そこを仕切っている男がいて、その男が客と値段の交渉をし、決まればその男がどのタクシーに乗ってもらうか指名するのです。一種のカースト的な互助組織で、仲間が平等に仕事にありつくように調整するのでしょう。明日ホテルに迎えに行くと名乗り出た男はパレスチナの亡くなったアラファト議長のような顔をしていました。途中マドゥライ駅の前の屋台で揚げたてのサモーサと熱いチャイーを立ち食いしました。みんなが私を珍しがって声をかけます。サモーサは中にジャガイモやカレーが入ったものを小麦粉で包んであげたものです。揚げたてはなかなかおいしい。夜食にこのサモーさと野菜のてんぷらのようなものを買いました。漬け汁もビニール袋にたっぷり入れてくれます。ホテルに着くとフロントに先ほど予約した車のナンバーと運転手の名前を告げて部屋に戻りました。朝夕は涼しくなり、クーラーは要りません。明日はいよいよ飛行機、列車を乗り継いでアジャンター・エローラ観光の中継地アウランガーバードへ向かいます。
7月23日、マドゥライからムンバイへ向かう飛行機は午後1時過ぎでしたが、余裕を持っていくために10時にホテルを出るようにしていました。アラファト議長に似た運転手は9時50分ごろ部屋のドアをたたき、下で待っているといいます。チェックアウトが終わり飛行場に向かいました。飛行場で食事や場合によっては両替もできるかなと思っていたら、何と小さな掘っ立て小屋のような建物でした。職員に言わせると5年後には立派な建物ができるといいます。売店もひとつしかなく、店主が何か買ってくれと、一人しかいない私に近寄ってきます。サンドイッチとチャイーを頼みました。インターネットで取得したチケットを見せると何と飛行機は2時間ほど遅れて離陸するという。待合室でぼんやり待つことにしました。到着した飛行機はジャンボで、なるほど滑走路はちゃんと整備されているのだなと思いました。チェンナイ経由でしたのでそれまでは軽い軽食が出ました。チェンナイからムンバイに向かう機内ではスチュアーデスが食事はノンヴェジかヴェジタブルか聞いて回ります。おそらく10日間ほど私は一切肉類は食べていませんでした。それほど南インドの大衆レストランはほとんどがヴェジタリアンレストランだったのです。それでも飽きさせない料理は見事でした。しかし目の前に肉もあるよといわれると、やはり食べたくなります。出されたタンドリーチキンの塊は本当においしかった。
さてインド一の大都会ムンバイにはやはり1時間半くらい遅れて着きました。相変わらず空港の出口には正規のタクシーではない連中がたむろして観光客を引っ張り込もうとしています。私はもうチェンナイの空港で懲りていたので、一般の人が並ぶタクシーストップで根気よく待ちました。観光案内書では警官がいちいちタクシーの発車をチェックするということでしたが、誰もいませんでした。タクシーの運転手はアウランガーバードに向かう寝台列車が発車する駅まで、観光と称して少し遠回りしたようです。確かに有名なマリーンドライブやイギリス統治時代の由緒ある建物を案内しながら駅に向かってくれました。そしてようやく日が暮れて駅に着いたとき、メーターを見ながら請求された料金は予定の倍の3000円でした。ここでまた交渉が始まります。私は1500円しか払わないというとじゃあ、お互いの半分の2000円だというのです。私は1500円の500ルピーを渡すと、さっさと車を降りました。車からは一時、おーい、あと100ルピーくれという叫び声が聞こえましたが、そのうちあきらめたようで去っていきました。今まで駅では表示の無さや、アナウンスのなさに苦労したのですが、この世界遺産にも登録されているムンバイCST駅はちゃんと電光掲示板やプラットホームの表示がありました。ありがたいことです。しかし今度は始発だとしてもアウランガーバードは途中駅でそれも到着は朝の4時10分です。乗り込んだ寝台車の区画は自分だけです。切符を確認に来た車掌にアウランガーバードに着く前に教えてくれと頼むのですが、英語が通じないのか、フォーオクロック、フォーオクロックを繰り返すばかりです。4時におきて降りる準備をしておけば大丈夫だということでしょうか。しかしインドの列車は確実に遅れるのです。そこで頼りになったのがマドゥライのインターネットでアウランガーバードまでの停車駅と停車時間を調べておいたことでした。特に停車時間は2分のときと大きな駅は10分のときがあるのです。アウランガーバードに着く前にこの10分の駅と2分の駅が入れ替わります。3時半ごろおきてこの10分の停車を確認すれば大丈夫だと思ったのです。3時ごろまでは何とかうとうとと眠りました。そして直前の10分停車の駅から、この列車が約45分遅れていることがわかりました。目的地には5時ごろ着くわけです。5時前に降りる仕度を始めた乗客に確認すると、やはり次はアウランガーバードだといいます。
駅に降りるとまだ薄暗い中、この駅を住処としているような人々が構内や周辺に寝そべっていました。予定ではここから少し離れたバスターミナルからアジャンター行きのバスが6時から出るはずなので、少し駅で休むことにしました。するとホテルの客引きがよってきて、うちのホテルで休んで、車でアジャンター・エローラを案内するといいます。とりあえずすぐ近くのホテルを見せてもらうことにしました。部屋は簡素でしたが、客引きの男やホテルの主人の対応が良かったので、ホテルと車のチャーターをリザーブすることにしました。ホテルは一泊900円、車のチャーターと案内はアジャンター、エローラ、二日間で6000円です。アジャンターまではバスで3時間、疲れた体にはこたえます。旅も終わりに近づきましたが、その割には懐にも余裕がありました。硬いベットに体を横たえるとチャーターした車の出発時間の7時まで眠りこけました。車はそれなりのもので、運転席には仏像が設置され、線香がたかれていました。運転手は仏陀の信者でした。寡黙で淡々と案内してくれたのが良かった。アジャンターに向かう道路は途中から有料道路になります。周辺は見渡す限りのデカン高原です。この広がりの中を朝の大気を掻き分けて徐々にアジャンターへと下っていく感覚がすばらしかった。2時間半ほどでアジャンターに着くと、アジャンターの環境を守るために日本が援助したシャトルバスで入り口まで向かいます。そしていよいよ洞窟です。しかし小学館などのすばらしい図版で見た仏画などは、実際の洞窟では暗くてよく見えないのです。保存のために明かるくできない。写真もフラッシュはたけない。そういうわけで、現物の壁画を鑑賞しようとするとがっかりします。だが岩山を切り開いてこれだけの彫刻や絵画を残し、ここでお坊さんたちが修業したことを考えるとやはりすばらしい遺跡だといえます。
帰りは車の中で眠りこけてホテルに戻りました。しかしあまり明かりの入らない、牢獄のような部屋に戻る気はしませんでした。リーゾナブルなホテルだが、少し風邪気味なので、もう少し上のホテルに移行したいといって、近くの上級ホテルまで送ってもらうことにしました。ホテルを移る前に明日のエローラの打ち合わせなどを食堂で行っていると、ひょっこりと日本の若い女性が現れたのです。このホテルに泊まっているらしく、日本人がいるよといって私のところに連れてきたのです。今回の旅行で出会った唯一の日本人でした。女性はさっちゃんといって24歳のフリーターでした。久しぶりにあった日本人ということで彼女は喜びを顔に一杯表していました。もう数週間一人でインドを旅している。インドは3回目だが、さびしくてたまらない。日本人と会えて本当にうれしいともうそれだけです。何で3度もインドにと聞くと、もともと大学でインド文化を専攻した。そしてヴァナラシのヒンズー大学に短期留学したのが一回目だ。二回目はムンバイにホームステイをした。今回、ムンバイでもう少し本格的なヒンズー語を学ぶための学校を調べにきた。2年間の就学だが、どうしようか迷っているということでした。いろいろと話は尽きないのです。そして明日は私がチャーターした車に同乗して、一緒にエローラを観光することにしました。私としてもここで日本人に出会えて、なんとなくほっとしました。そして明日のエローラにもなんとなく心の余裕を感じました。
翌日7月25日の朝は、10時に迎えに来るということなので、朝がた、周辺を散歩して、近くのレストランで朝食を取りました。レストランといっても道路際の露天にいすとテーブルが並んでいるだけで、小さなテントのようなところが台所になっているものです。父親と娘だけの経営で、父親が私にメニューを見せて片言挨拶します。フライドライスを頼んだら娘がテントで調理します。娘は20歳前後のインド美人でした。道路の向こうにはインドでよく見かける赤い花が咲いています。あの花なんて呼ぶのと聞くと。手帳に名前を書いてくれました。GULMOHARというのだそうです。フライドライスは大きな皿に山盛りでした。たまねぎやにんじんなど数種類の野菜と香辛料でいためたものですが、おいしい。全部食べてしまいました。どうでしたかと不安そうに聞く娘。ベリグッドというと笑顔で喜ぶのです。娘の容姿があんまり素敵なので写真を撮らせてもらいました。名前を聞くとジュ―ディーといいます。また夕飯を食べにきてください。はい、きますよ。しかし約束は果たせませんでした。
さて10時かっきりに、移動したホテルの玄関に車が迎えに来ました。昨日の運転手とさっちゃん、それに助手席には案内人が加わっています。彼女は昨夜はうれしくて今日の観光を楽しみにして眠れなかったと。昨日とは違って結構めかしこんでいるのです。ムンバイの学校を紹介してくれたおばさんが自分のためにパンジャビードレスを仕立ててくれたと自慢するのです。青緑のドレスと赤いスカーフ、それに首周りには光物が埋め込まれています。これで1200円ですよ!と喜んでいます。エローラはアジャンターと違ってすぐ近くで30分ほどで到着。まず中央の一番有名なカイラーサナータ寺院を見学しました。日本の案内書ではこの寺院が一番すばらしいので一番最後に見ないと他の洞窟が色あせて見えると書いてあります。そんなことはない、他の寺院もすばらしい。特に歩いてはなかなかいけない奥のジャイナ教の寺院はすばらしいものでした。むしろカイラーサナータは図書館にある日本の最高の美術全集でたっぷり見てきたので、逆に拍子抜けでした。思ったほど規模は大きくないのです。確かにすばらしい。それは認めざるを得ない。しかし期待した感動は無い。こういうものだと思います。アジャンター、エローラの鑑賞は日本にはすばらしすぎる図版が多数存在するのです。そこで得た知識や感動を現地で追体験しようとすると期待を裏切られてしまいます。感動といえば、意外なところで出会うのでした。たとえばデリーの近代美術館で閉館前に滑り込んでみた大きな女性の裸体画には本当に感動しました。またマドゥライのミーナクシ寺院で見た何気ないシバ神の像にも感動しました。こうして感動というものは向こう側からきて、意外なときに出会うものなのです。しかし、アジャンター、エローラのすばらしさはこれらの洞窟がはるかなるデカン高原の雄大さの中に存在するということです。こればかりはやはり現地に来て、現地の大気に触れないとわからない。晴れ渡った空と奥深い緑、そして見渡す限りの平原、さっちゃんは、すげえ、すげえを連発していました。二十数か所ある洞窟の真ん中はヒンズー教遺跡、これがもっとも華やかで男女の絡みあいも優雅です。右奥は仏教遺跡。ヒンズー教に比べると仏像などは端正で、簡潔、落ち着いた美しさがあります。そして左奥のジャイナ教、チャーターした車で移動します。ギラギラと照りつける日差しの中では車の移動は本当に助かります。ジャイナ教の洞窟は当時の商人層に支持されていたというように、かなり手の込んだ、費用をかけたのがわかるような細工でした。しかしジャイナ教そのものは無所有、非殺生の厳格な宗教です。仏陀と同時代のマハーヴィーラなどの像もきわめて端正で素朴なものでした。エローラを見学中、物売りや物貰いがしつこく付きまとうことがありましたが、ヒンドゥー語が多少できるさっちゃんが、何か言うと、彼らはさっと身を引くのです。これには助かりました。
エローラを見終わってアウランガーバードへ戻る途中、ダウラガバードという、昔の要塞を訪れることにしていたのですが、途中急に雲が出てきて激しいスコールにあいました。私たち4人は途中の店で雨宿りしてお茶を飲みました。時期としては雨季なのでスコールには時々出会うのですが、普通は10分ほど、どっと降ってすぐやむのです。日本のようにしとしとと降り続く梅雨とは違います。ですから雨の上がったあとは涼しくなり快適です。緑もいっそう鮮やかです。しかし今回は30分ほど続きました。道路を濁流がどんどん流れていきます。これがインドなのです。道路沿いに山のようになったごみは、牛が処理し、犬が処理し、人々がめぼしいものを処理し、残ったものはガンジスなどの大河にスコールと一緒に流されるのです。すべてを水に流す。ホテルもそうです。タイル張りの浴室そのものがどんどん水を流して汚物を処理するのです。人間もそうです。どっと出る汗は新陳代謝を高めます。そして辛いものやハーブを食べて、どんどん排出するのです。糞便はぜんぜんくさくないのです。人々は朝、野原で糞をし、おしりを水で洗い、糞は犬が食います。ホテルでもいちいち紙で拭いていたら香辛料の排出とあいまって、いっぺんに痔になってしまいます。インドでは水で洗うのが一番だと納得しました。ヒマラヤから流れ出たこの豊富な水の流れでインドの大地も人々の体内も洗い清められるのです。そして大地からの豊かな実りを約束するのです。
さて雨がやんでさわやかな大気の中を車はダウラガバードに向かいます。岩山そのものを砦にした、雄大な遺跡です。ここは結構インド人にとっては観光の穴場らしく、サリーなどをめかしこんだ家族が見晴らしの良い場所で楽しんでいました。われわれ二人も途中休んでいると、みんながにこやかにこちらを見ています。私がデジタルカメラで写真を撮って液晶を見せてあげると、それはもう大変です。俺が写っている、私が写っている。さあ、今度はわしらの家族を撮ってくれと、カメラの前に並びます。写真そのものをあげるわけではないのに、いい土産話になると、喜んでポーズをとるのでした。
アウランガーバードに戻ると案内人は市内の遺跡を見てもらうといいますが、私はもうホテルへ帰って休みたかったので、もう二日ここに滞在するさっちゃんに私の費用分も使って見せてあげるように頼んで、どこかおいしいレストランに連れて行ってくれと頼みました。さっちゃんにごちそうしなければならない。
しゃれたレストランに着いた私たちは、私はタンドリーチキンが一杯入ったガレーを、さっちゃんはさすがインド通というか、メニューにも載っていないほうれん草とチーズを絡めたスープ状のものを頼んでいました。両方とも二人で分けて食べたのですが、本当においしかった。さっちゃんはこれからまたムンバイに戻って一ヶ月ほど滞在するとのこと。そしてその後2年間ムンバイのヒンドゥー語の学校に通うかどうか決断するということでした。彼女は24歳、私の娘よりもひとつ上、お父さんは私より2歳ほど若く、電気機器関連の会社で海外出張が多いらしいのです。単身赴任で日本を離れることも多く家族(母親と女三人、弟の4人兄弟)のうちでも彼女だけが単身赴任の父親を訪問したことがあると自慢していました。今はフリーターとして派遣会社に登録していろんな仕事をしている。でも将来を考えるとこのままでは展望が開けない。といって一人インドで学ぶのも寂しくて仕方が無い。恋人も日本にいるということでした。一人旅はえらいなあといったら、でも毎日寂しくて仕方が無いといいます。お金も無いので安いホテルを泊まり歩くしかない。そしてホテルに着いたらホテルの従業員に家族の写真を見せるのだといいます。みんなのお互いの家族のことを話し合って、寂しさを紛らすのだというのです。ところがその写真が暑さでくっついて、半分ほど台無しになったといって涙ぐむのです。この写真が無ければもう私は生きていけない。この写真があるからがんばっていけるというのです。そして写真を見せてくれました。確かにくっついて破れた写真もありました。レストランの支配人も興味深そうに覗き込みます。そうすると彼女はうれしそうに、ディスイズマイマザーといって見せびらかすのです。一昨日、私に会う前も、寂しさを隠せなかったら、よろしいではわれわれが話し相手になってあげようと、若い従業員たちが夜遅くまで話し相手になってくれたというのです。今泊まっているところは一泊900円だけど、これからは節約して300円くらいのところしか泊まれない。食事も今までも一日一食だったというのです。偉いなと思いました。私の場合はこの900円の宿さえ牢獄のように感じて、3000円もする快適なホテルに変えてもらったのでした。そこでは熱いお湯も出る。彼女もやはり熱いお湯をかぶらないと疲れが取れないといいます。しかし安い宿は朝方だけぬるま湯が出てくるだけです。そこで彼女は従業員に頼んで、夜、バケツ一杯の熱いお湯を部屋に持ってきてもらったというのです。いくらで?と聞くと無料だというのです。私が頼んだらそれなりの料金を取られたことでしょう。インドではお金の無さそうな人からは、それ相応の対応をしてくれるところがあります。もちろん若い女性だからなおさらです。それでもさっちゃんはたくましいなあと思いました。私が案内してくれた運転手たちにチップはいくらぐらいあげればいいと聞くと、そんなの一切いりません。案内料をたっぷりとっているんだからときっぱりと言います。それにしてもこれから2年間の就学にまだ決心がつかないと言います。まだまだ若いのだから、がんばって就学してみてはと励ましました。きっと日本にいる恋人も理解してくれるよ。インドの急激な成長を考えれば、ヒンドゥー語の通訳ができれば、これからすごい需要があると思うよ。今のフリーターの境遇を脱却するにも良い選択だと思うよと。まだまだ若い。若さは特権なんだから。私はもうそんな将来は無いのだが、というと、そんなことは無いです。まだまだいろんなことができます!と逆に励まされたりもしました。こうしてアウランガーバードでは久しぶりに日本語の会話が堪能できたのでした。
ムンバイから寝台列車で8時間かけて到着したアウランガーバードですが、今度は一気に飛行機で1時間、ムンバイに戻ります。飛行場はマドゥライと同様、小さな建物でした。9時の予定がやはり2時間ほど遅れるというのです。1時間前になってチェックインするためにカウンターに並ぶと、今度はコンピューターが動かず、処理ができないのです。こうしてムンバイにはやはり1時間半遅れで到着しました。今回は昼間なのか空港のタクシー乗り場には警官がいて、乗った客の名前と車のナンバーを控えています。こうすることでタクシーは法外な運賃を請求できなくなるのです。空港から、夕方、ニューデリーに向かう寝台特急ラジタニーエクスプレスが発車するムンバイセントラル駅までも妥当な値段でした。駅はアウランガーバードに向かうときのムンバイCST駅と同様に、電光掲示板や表示もしっかりしていました。駅のクロークに荷物を預けると、再びタクシーでインド門に向かいました。ムンバイの街並みはイギリス統治時代の建物も多く、それなりに洗練されています。インド門から歩いて、さっちゃんがぜひ行ってみるべきだと奨めていたプリンスオブウエールズ博物館に行きました。ここでは、写真は一切撮影できませんが、日本語のガイドが流れる無線のイヤホーンを貸してくれます。他のインドの博物館とは違って、陳列や説明もかなり整備されています。日本の浮世絵や陶器もひとつの部屋があてられています。チベット仏教の展示室もありました。そこに男女が合体した彫像があり、イヤホーンからは日本語の説明が流れました。この合体は男性の哀れみの心と女性の洞察力があいまって世界が形成されることを表しているというのです。このことについては「タラの芽庵便り」の補足的な注解7「空海と密教」で詳しく述べましたのでご覧ください。博物館を出て街中をぶらつくと革の財布を売っている店があったので無くした代わりの財布を買いました。600円ほどでした。なくした同じような財布が日本で3000円ぐらいしたので少し損失を取り戻したような気分になりました。
ムンバイセントラル駅に戻るとクロークから荷物を取り出し、二階の一等専用待合室に行きました。今回の旅行の最後は、日本からのインターネットチケットで少し豪華な、ラジタニーエクスプレスの一等客室を購入しておいたのです。専用の待合室は冷房も効いて快適でした。30分前には列車が入線、10数両のうち1両のみが一等で10個ほどの個室に分かれています。車輌の入り口に張り出された名簿で自分の部屋を確認して部屋に入ると、すでに相客が入っていました。恰幅のいいインド人の男性でした。インド生まれだが今はカナダに住んでフロアのタイルを売る会社を経営しているといいます。確かにインドは岩山が多く、ここの安い人件費で製造されたタイルを世界へ売り込めばいい商売になります。しかも彼はヒンズー語、タミル語、英語、フランス語など5つの言葉がしゃべれるといいます。これが大きな武器だと。一年のうちの一ヶ月ほどはこうして海外に出かけて仕事をしている。この前は仕事で日本に行って、ついでに日光を訪れた。そして日本の交通機関の時間の正確さに感心し、ビジネスのスケジュールがたてやすかったといいます。そんな話をしていたら急に若い男性が侵入してきました。どうやら満員で、この部屋に一時的に入ることになったようです。2時間後には降りるので二段ベッドをしつらえて、早々と上で休んでいました。しかし夕食の時間になると降りてきて一緒に食事をしました。食事は次から次に出てきます。お菓子が出てお茶が出て、前菜のようなものが出て、メインディッシュもたっぷりです。私だけはノンヴェジを頼みましたが、出されたチキンは半分残してしまいました。食べながら私が若い男にカースト制度についてどう考えるのかと聞くと、黙ってしまいました。そうしたらカナダの実業家が、人々は都会に集中し、若い人を中心に、徐々にカーストの影響は無くなりつつあるのではないかと話していました。そのあとはカナダ、日本、インド、それぞれの国の状況を話し合うような具合で、若い男が人口の多さだとか面積の広さだとか、何事にも執拗にインドの優位性をとくのが面白かった。彼から明日はニューデリーでどうすごすのかと聞かれたので、まずフマユーン廟を見てからガンジー博物館へ行き、それからコンノートプレイスで買い物をして飛行場に向かうといったら、若い男はガンジーね!と笑うのです。いまどき非暴力主義はね、といった感じでした。しかし私の案内書の地図を見ながら、そのコースだと飛行場まで500ルピーでいければたいしたものだ。それ以上だとボラレル恐れがあるから注意したほうがいいよといいます。ガンジー博物館は知らない運転手も多い。どこを目印にすればいいのかなあといいながら携帯電話をかけていました。そして携帯電話の相手から聞き取ったのか、ガンジーミュージアムがわからない運転手には・・・ホテルの近くだと言えばいいと教えてくれました。一等車に乗るくらいなので、裕福な家庭に育ったのか、議論はするが、親切さも兼ね備えた青年でした。青年は仮眠したあとすぐに降りていきました。そのあとカナダの実業家はソファの上に胡坐を組んで、10分ほど不動の姿勢でヨガの瞑想に入りました。微動だにしなかったのでプロフェッショナル!といったら、いや、ほんの少し。でもこの時間、毎日やっているといいます。一時すると係員がベッドメイキングに入ってきます。実業家は作業を見つめながら、シートの張り具合まで細かに注文しています。それに対して従業員は忠実にこたえているのです。やはりこれがカースト制の残るインド社会なのかなと思いました。まくらももうひとつほしいというともう一つ余計に持ってきます。あなたもどうかといわれたので私ももうひとつもらいました。これが結構楽チンでした。ベッドの幅も広いし、長さは世界一だと実業家が言います。トイレも洗面所の付いたお湯の出るもので、顔を洗い部屋に鍵をするとぐっすりと眠りにつきました。
翌7月27日、彼は朝食を早めに済まし、私と挨拶を交わすと途中の駅で降りました。朝食はヴェジタブルのオムレツを頼みました。コーヒーを飲んで最後に例の胃薬のようなSOMYが出ると、そのお盆の横に100ルピー札が置いてあるのです。お盆を下げるとき、この100ルピーは何だと聞くと、この額だけいただきたいという意味だというのです。なるほど昨夜の夕食から今までいろいろと世話をしてくれたわけだから何らかのチップは渡してもいいと思いました。例のカナダの実業家はさりげなく渡していたのだろうか。わけのわからない日本人には、現物で示すしかないと思ったのだろうかと苦笑しました。そして100ルピー札を渡すと、従業員の代表者のような男は恭しく受け取って出て行きました。この日は私の59歳の誕生日でした。生まれてはじめての遠い異国での誕生日でした。
デリーのニザームウッディーン駅に着くと、フマユーン廟は駅から見えているのですがぐるっと塀に囲まれて入り口まで結構距離があるようです。この暑いなかを、荷物を持って歩くのは大変です。しかしすぐ近くなのでオートリクシャではなく人力車を頼みました。若い男でしたが少し坂道を懸命にこいでいる背中を見ると、つい余計に払ってしまいます。これでは空港まで500ルピーは無理だなと苦笑します。男の哀れみの弱さなのだなと。イスラム建築の粋を集めたフマユーン廟を見ると出口にはオートリクシャが一杯待機しています。さあ、ここで今までの経験を生かした交渉です。相手は一番手ごわいデリーの運転手です。順番で私の相手をする運転手はリクシャの組合の一員なのでしょうが、自分で私と値段の交渉をします。後で聞いたらリクシャそのものも自分の所有物だというのです。少し落ち着いた、五六十代の男でなかなか味のある顔をしていました。なんというかローマの休日でヘップバーンの相手役をしたグレゴリーペックを一回り小さくしてしわくちゃにしたような風貌なのです。それでも気を緩めずガンジー博物館まででいいから行ってくれと頼みます。するとグレゴリーは場所を知っていました。そして案の定、博物館を見た後の予定はどうなっているのかと聞きます。そんなの知らん、とにかく博物館へ行け、というとおとなしく博物館に向かいます。博物館は入場料無料でガンジーの行動の足跡をたどる写真や遺品が展示されていました。あの塩の行進をしたときの杖や、粗末な寝具、刺客に殺されたときの衣類なども展示されていました。館内には若いインド人も見学に着ており、真剣に展示物を見ていました。
さてあとは旅行案内書に乗っている政府公認のお土産センターに行ってから飛行場へのルートなのですが、歩いてはとてもいけない。どうするか、グレゴリーはデリーの運転手としてはそれほど悪くはなさそうだ。グレゴリーはしてやったりといった顔で、入り口で待っていました。地図を見せると場所は知っているのですが、ここは高すぎるよというのです。俺の知っているところにいこうと。ああ、こういう言い方に引っかかってはだめだと。どうしてもここへ行けというと、わかった、そのあとはどうするのだといいます。知ったことか、ここまでで終わりだといって、政府系のお土産屋へ連れて行ってもらいます。グレゴリーに金を払って別れてから、お土産屋のビルに行くとなんとなく格式ばった店なのです。中は確かに衣類や彫刻やお茶など良質の品が並べられていましたが、どれも高級で値段はかなり高い。案内書ではリーゾナブルな値段だと書いてあるのですが。確かにぼられることは無いと思うのですが、高い品ばかりです。何も買わずに出てくると、グレゴリーはまだ入り口にいてニヤニヤ笑っているのです。ほら見たことかと。とにかく俺の言う店にも行ってみろと。連れて行かれた店は奥まったところではなく、それなりの店構えなので中に入ってみました。確かに同じ品物だが値段は安いのです。案内書には政府公認の土産物屋は安心だと書いてあるのですが、それがあだとなって日本人観光客がどんどんそこで金を落とすものだから、店におごりが出てしまいます。バリ島に行ったときも旅行案内書でおいしいと紹介してある店に行って食事をしたのですが、味はまあまあなのですが高くて応対も良くないのです。これも案内書を見て日本人がどんどん来るものだから店の対応が粗雑になるのかもしれません。近くの日本人以外の西洋人観光客がよく集まるレストランに行くと、味もおいしいし、店の応対もよく、値段もずっと安いのです。案内書の評価には十分注意しなければなりません。結局グレゴリーの勧めた店でダージリンのお茶を買いました。まあ悪そうな男ではない。私は結局空港までの予定を話して交渉することにしました。おなかもすいたのでおいしい店を紹介してほしい、そこで食事をした後空港まで送ってほしいと。交渉の結果、何とかラジタニーエクスプレスでの若い男が忠告した値段の範囲内に納めることができました。
途中グレゴリーは、道路の脇に止まってあれがガンジーの銅像だといいました。それは別のガンジー記念館になっている場所で、その道路側に杖を持つガンジー、そして彼に続く人々、おそらくネルーなどがかなり大きな一連の銅像となって動的に表現されているのです。私は思わず、ガンジー、イズ、グレイト、と言うと、グレゴリーは私を振り返って大きくうなずきました。ガンジー、このインドが生んだ巨人について、私もそれなりの文献は読み尽くしたが、まだ完全に理解していないかもしれない。列車の青年ではないが戦術的には非暴力を非難する声も聞かれる。伝記を読んでも若いころは意外と小心で、凡庸さも垣間見られる。しかし、文化としてのカーストを否定しなかったこと、そうした古来からのインド文化を西洋に対する武器としたこと、30を過ぎて徹底した禁欲主義を貫ぬこうとしたこと、ノーベル賞を二度も拒否したことなど、それに自伝の最後を締めくくる他者というものに対する深い理解は、やはり彼がインドの大地が生んだ偉大な人格の一人だと考えてしまいます。グレゴリーの大きなうなづきがそのことを象徴しているように思えました。グレゴリーが自信を持って勧めるレストランの前に止まり、私が一緒に食事をしようというと、それはいい、待っているからゆっくり食べてこいというのです。久しぶりに魚が食べたかったのでシーフードのカレーを頼みました。時間がかかりましたが、魚にころもをつけてフライにしたものを野菜などとカレーで煮込んだもので、とてもおいしいものでした。私はこうして一人、私の59歳の誕生日とようやくここまでたどり着いた旅の終わりを祝いました。それに最も治安に注意すべきデリーでしたが、最後はなかなかの味のあるまともな運転手に出会ったと思います。彼の写真を撮り忘れたのが残念でしたが、おいしい店を出たところで店の前に立つ59歳の自分を彼にとってもらいました。そして無事、渋滞の中をかいくぐるようにして飛行場まで送ってもらったのです。彼には3人の娘がいるといいます。お礼に用意したボールペンは2本しか残っていませんでしたが彼に渡しました。彼とは強く握手を交わして分かれました。
飛行場内でもいろいろと土産を買う店があるだろうと思ったのですが、意外と無いのです。セキュリティーチェック後の免税店も宝石やウイスキーなどの高級品が主でこういうところのあっけらかんさもインドなのかなと思いました。インドまでの往復は日本航空なので離陸も定刻、翌7月28日の成田到着もほとんど定刻でした。
さて、旅で得たものが何だったのか。旅は普段の生活から一時脱出したいという期待からスタートし、準備が始まり、準備した道をそのとおりたどったり、逸脱したりして、無事旅を終え、疲れを癒し、また普段の生活に戻る。そんな人間の自然な営みでもあります。私の旅行中、母親が親戚に何でまたこの時期に一人で無謀にインドまで、と聞かれて、たぶん自分探しに出かけたのでしょうと答えておいたということでした。この歳になって年老いた母親から自分探しといわれるのも恥ずかしい限りですが、まあそんなものでしょう。
印象深かったのは、南インド、カーンチプラムの宗教施設の土着的な雰囲気でした。地元の人々と静かに融合して活動しているといった感じでした。人間の目標は再生を遮断することだとグルたちは教えます。なぜ再生はだめなのか、この世が善と悪の絡み合いなら、それが永遠に繰り返され、人類もそこで永遠に繰り返されてもいいではないかと反論しても、そうではない。輪廻を離れるよう努力しなさいといわれてしまいます。施設では多くの子供たちも学習していました。グルたちは理屈ではなく、子供たちに膨大な神話を判りやすく教えることに力を注いでいました。ラーマヤーナ、やマハーバーラタなどの長大な物語だけではなくクリシュナやシバにまつわる様々な民話などが集成され、人々に提供されているのです。短い期間でしたから、私はここで生活する人々と論理的な帰結で理解しあえたとは思いません。というかもはや理屈だけで、言葉の整理だけで満足しようとは思いませんでした。あのカーンチプラムの宗教施設の清貧な空気、地元の人々の信頼、学ぶ人たちの静かな対応、こうした空間と人々の表情を今でも思い出すことができます。
このようにあるがままのインドを受け入れるための前兆だったのか、宗教施設に着くまでに、何故か、ものすごい虚脱感に襲われたのです。これは何なのだろうと思いました。旅の疲れなのか、夜の涼しさで風邪を引いたのか、ヴェジタブルばかりで肉を食っていないからなのか、香辛料で胃が重たくなったのか、と。よくはわかりませんが、それは理屈だけに頼るような世界からの離脱を暗示するかのようでした。
短い期間でしたがインドではいろんな人々に出会いました。たったの半月がずいぶん長く感じました。一人で対処しなければならない課題も多く、それらを成し遂げた時の安堵感も大きく、そんなこんなでもっと長くインドにいたような錯覚に陥ります。
もう一度インドへ行く機会があったら・・・。私はコルコタの街並みを歩きたい。そして南へ下ってもう一度カーンチプラムのカマコチピータを訪れたい。そしてジャンレノの笑顔が見たい。ああ、それからもっとも好ましくない都会、ニューデリー、しかしあのリクシャの運転手、グレゴリーにはぜひもう一度会いたい。数年後、あのフマユーン廟の出口にグレゴリーはまだ陣取っているのだろうか。リクシャの仲間たちの中でも一人独立を保っていたグレゴリー。落ち着いた澄んだまなざし。私よりも少し年下だろうか、私がだまされないようにと、必死になっていたのを、今考えるとこっけいに思っていたことだろう。空港へ向かう途中、斜め前を行くカローラを見て、日本ではあの車はいくら位するのかと聞かれて200万くらいかなと答えたものです。俺にはそんな大金は無い。それでも俺は家族のためにこのオートリクシャを自分で買った。そして燃料タンクのあたりをぽんとたたいて、この燃料はナチュラル(天然ガス)だ。ガソリンのようには高くないし、自然にいいのだというのです。大将、結構いうね。と思ったものです。そうだ、今度あえたら、もう一本ボールペンを用意しよう。娘が三人いるというのに今回は2本しか渡せなかった。できたら家に案内してほしい。家族の人たちにも会いたい。そして着替えてもらって、みんなであのシーフードカレーがたまらなくおいしかったレストランに行こう。グレゴリー、あのガンジーは偉大だといったとき振り返ってうなずいたグレゴリー。私はそこにインドのおおらかさと懐かしさのようなものを感じたのです。大いなるインド。最初のインドの旅はこうして終わりました。次回からは南インドを中心とした二度目のインドの旅を回想したいと思います。