Top 2009インド旅行記( 1 2 3 4 5 6 7 8 ) 大野先生へ
2009年7月17日、私は二度目のインド旅行に出発しました。今回の南インド15日間の旅行の目的は、2年前に訪れたカーンチプラムのヴェーダやヒンズー教の研修施設を再訪し、ヴェーダや現地の人々の考え方をもう少し深く学び取ることにありました。同時に私は最初のインド旅行で学んだことや自分の今までの考えをまとめた「The Letter from Tara」を持参し、インドの人々に読んでもらうことにしました。
成田空港で10万円をドルに両替。しかし円が強く、何処でもそのまま通用するので、現地でインドルピーに替えるべきでした。成田からシンガポールまで7時間。時間通りシンガポール到着。自宅へ電話しようと思っても空港内ではまったく携帯が通じませんでした。シンガポールからチェンナイへ。成田のチェックインで一番前をとってくれたので足が楽。となりのインドの男性二人と話す。何か困ったことがあったら連絡してくれと建設業者らしい男から名刺をもらう。チェンナイに夜10時過ぎ予定通り到着。予約していた日本のペリカン便の送迎タクシーがちゃんと来ていたので助かりました。12時頃ホテルに到着。風呂に入って寝たが、冷房が効いていてすごい寒さ。ベッドの芯まで寒い。ズボンから何から着るものを全部来て、サバイバルシートを巻いて、風邪薬を飲んで寝ました。朝の7時までうとうと。起きると眼鏡が見つからない。ベッドの脇に落ちたまま。疲労と寒さで衰弱して下に落としたのに気がつかなかったようでした。
ホテルからはオートリクシャに乗ると、案の定狡猾なドライバーにだまされて、バスセンターまで200Rもとられる。しかしバスはすぐ見つかりました。窓を開けないとうだる暑さ。しかし強い風が容赦なく顔をうつ。カーンチにつくと、さっそく寺院巡りの客引きがよってきました。ピータ(聖なる場所という意味)までで良いというのに、それも40R。バスで一緒になった青年が間に入って30Rにしてくれる。何か困ったことがあったら連絡してくれとメモ帳に携帯電話番号を書いてくれる。Saijoという日本人みたいな名前でした。
こうしてとうとうピータに到着。2年前と変わっていないが周辺はすこしにぎやかになった感じでした。前回の訪問でお世話になり、その後メールのやり取りをしているアイヤーさんは奥さんの具合が悪いため、今回は彼の友人に私の世話をするよう事前に頼んでくれていました。その3人の名前を告げると、入り口の信者はすぐに中に入れてくれました。中は2年前と変わらない。ひんやりして、心が落ち着く空間。奥まで行くと、修業者たちの前に現れたホーリネスジュニアに偶然出会うことになりました。
彼の名前の正式名称はThe 70th Pontiff His Holiness Sri Sankara Vijayendra Saraswati Swamigal 第70代の聖なる指導者、シュリシャンカラ・ヴィジャエンドラ・サラスワティー・スワミガル。初代シャンカラはヴェーダの歴史上有名な解釈家。彼の教えをここピータで代々受け継いできたのです。第68代の指導者が世界的に有名でガンジーと会談したり、国連で彼の詩が読み上げられたりしている。今のピータを支えているのもこの第68代の思想です。彼は言っています。この世に生きている私たち人間という存在は、この世でそれぞれのやりかたで自己実現を図る存在である。何がその人にとっての自己実現なのか。それはその人が一生かかって探すしかない。その手助けとなるのが宗教である。宗教は手段である。ヒンズー教でなくともよい。仏教徒、イスラム、キリスト教徒であろうとも、はたまた宗教を通じなくとも、それぞれが生きているうちに自分なりの生き方を探ろうとするのが悠久の過去から続く人々の生である。それも過去の人類の善と悪の資質をいやおうなく受け継ぎながら、この多様な世界で四苦八苦して自己実現を図るしかない、と。
2年前には会わなかった第70代ホーリネスジュニアの年齢は40歳代前半。2年前に会った第69代の指導者も同じピータにいるが70歳代後半で、実質的な権力はこの若い第70代に移っている気がしました。拝謁者も69代よりも、この若い70代のほうがずっと多い。彼がちらりとこちらを見ました。ケイムフロムジャパンというと、ちょっと驚きの表情を見せた後、にこっと笑う。この第70代ホーリネスジュニアに付き従っている若い僧侶に、今回訪れた目的を説明する。勉強をしに来たので簡易な宿泊施設があったら紹介してほしいというと、すぐに手配をしてくれました。ホーリネスジュニアの前には大勢の信者が託宣を受けようと並んでいる。年配の女性が今すぐにはホーリネスジュニアに私が拝謁できそうもないので、使用人の青年バンチャパケサンに言いつけて、食事を取ってもらって、とりあえず私を宿泊施設に連れて行くよう指示してくれました。
バンチャパとオートリクシャに乗って、食事が出来る立派な慈善施設、アンナーハダムAnnadhanamに到着。そこではインド西海岸のコーチンの方から巡礼に来ていた信者たちが食事をしていました。日本のことでいろいろ質問される。私は、はるばる東の端から、この世界の中心にやってきた。カーンチは世界の中心、へその緒という意味だと言うと、ほほう初めて聞いたとびっくりしていました。おいしいミールス(ご飯を真ん中に、周囲にさまざまなカレーが添えられる南インドの昼食の定番)とラッシー(乳酸飲料)をたっぷりご馳走になる。食事を済ませてアンナーハダムを出ようとすると、すこし話をしていかないかとここの所長に呼び止められました。もう自分のことは広まっているようだ。使用人バンチャパは急がないと、とそわそわする。私は用意してきた「タラの芽庵便り」英訳の一冊目をこの所長に送ると、一通り目を通してくれる。タラとは何なのか。その後Taraを渡した9人全員からそのように聞かれました。
所長との会見が終わるとバンチャパはピータが運営する宿泊施設トラストに私を連れて行ってくれました。バンチャパはまだ20代前半の青年だが、ピータでは使い走りの雑用をこなしたり、ピータの庭に絨毯を広げて、首飾りやローソクなど儀式に使う小間物を売ったりしている。よく売れるのかと聞くと、全然売れないと言う。それでもかまわないといった様子で、何を聞いてもニコニコしていました。(バンチャパの写真はMy Photoに載っています。) 宿泊施設はアンナーハダムのすぐ隣でした。私のために最上階に一つだけある、清潔で見晴らしの良い部屋が用意されていました。目の前にカーンチプラムで最も重要な寺院、カーマクシ寺院の壮麗な建物が迫ってきたので、一瞬ぎょっとしました。この時は、祭壇にかがり火を焚き続けるホーリー祭が行われており、夜もイルミネーションランプが寺院を覆い、通りでは象を引き連れた祭りの行列がなかなかの見物です。(My photoで短いビデオが見られます。)妻に携帯で電話をすると、シャワーを浴びてさっぱり。これから一週間以上滞在するための快適な宿が確保できてほっとしました。心地よい風と町の雑踏に包まれてぐっすりやすみました。
翌朝は6時に起床。ぐっすり寝ましたが、すこし頭が痛い。扇風機を止めて寝てよかった。朝方はかなり涼しいのです。カーマクシ寺院の周囲を散歩する。前日従者たちからはホーリネスジュニアに会うために今日ピータにくるようにとの指示があったので、バス通りまで出るが、前日オートリクシャに乗って来たのでピータの場所が分からず引き返す。宿泊施設トラストの守衛がピータは、今日は休みだという。しかし夕方地図を見るとピータは意外と近いので、歩いていってみました。道ばたはゴミが散乱し、インド独特の匂いがします。ピータに到着。休みでも入り口の参拝場への客は多い。しかし中には入らず、近くのレストランでイドリ(Idly)とコーヒーを注文しました。イドリは日本の蒸しパンのようなもの。それをカレーにつけて食べる。ピータには明日いくことにして、夜はカーマクシ寺院の中に入る。真ん中の祭壇にホーリーの巨大な焔。毎日繰り返されるマントラの朗唱と楽器の演奏。この焔はインダスのゾロアスター教と仏教の護摩会との接点。ドラヴィダ文化がまさに古代東西文化の接点であることを示しているように思えました。正面玄関に飾られたしめ縄もまさに日本のものとそっくり。この注連縄の類似については大野博士も説いています。
トラストに戻り、寝ていると夜10時頃若い僧ヴィルヴァム(Vilvam)がドアをどんどんとたたくのです。今日は何故ピータに来なかったのかと穏やかに怒っている。しかし旅で疲れていたのかと、こちらの理由を作ってくれます。本当はまた連絡がくるものと、このトラストで待っていたのだが、そうだ、疲れていたと答える。では、明日の朝8時にピータに来て事務総長のラーマ・シャルマ(Rame Sharma)に会えというのです。
7月20日、7時起床。8時にピータへ。アメリカ人の若い夫婦の信者と会う。テキサスから来たという。感じのいい夫婦。ここで待っていれば自分たちがラーマ・シャルマに取り次ぐという。待っていると、西洋人のような顔をした、すばらしい美貌の青年僧侶ヴィージェイが、前述した有名な第68代のピータの指導者がマドラスで教えを説いた講義録を持って来てくれました。広いピータの中庭にあるラーマ・シャルマの事務所に別の僧に連れて行かれてそこで彼を待つこと一時間。こうして自分を世話してくれる僧は一人ではない。滅多に現れない日本人の出現に、情報を取り合いながら、やさしく対応してくれているのです。何故にヒンズー教徒でもない年老いた日本人がはるばるこんなところに来たのか。誰もの疑問に私は次のように答えました。私はこれからの世界のあり方を考える上でヴェーダの考え方は無視出来ないと思う。日本にいて様々な文献を読んで初歩的な知識は身につけた。2年前に訪れたことのあるこのピータを再び訪れる決意をして勉強して来た。ヴェーダを深く研究するためには、世界中のヴェーダ研究が凝縮されているこの地を訪れるしかない。そこで二年前懇意になったアイヤーさんを頼ってここへ来た。彼は奥さんが重い病気でまだムンバイの病院にいるが彼がここにいる数人を紹介してくれた。私の考えは持参したTaraという冊子にまとめてあるので読んでほしいと。
これらを聞いて、そんな思いで一人はるばると日本から来たのかと、年老いた僧も、若い僧も、何度もうなずいていました。私が速やかにヴェーダの勉強が出来るように取りはからってくれている。ピータが建てた大学の図書館へ連れて行った方が良いという声も聞かれました。
事務所でラーマ・シャルマを待っている間に事務総長の書記、バロルシャナンが、息子が世界のコインを集めているので日本のコインがほしいというのです。あいにく日本のコインはトラストにおいて来たので1000円札を渡す。さすがにこういう高額をもらうのは許されていないので、内緒にしてくれと言って素早くしまい込みました。事務総長のラーマ・シャルマ現れる。四五十代に見える威圧するような人相だが、アイアーさんの手紙によると、ヴェーダ文献の理解はまだまだだが、事務総長としては有能だとのことでした。私を待たせたままでしたが、様々な人間が入れ替わり立ち替わり彼の部屋に来て要件を相談します。彼はそれらを素早く理解して指示を出す。アイヤーさんが紹介してくれたメータも現れる。二人とすこし話す。そのうち時間だということで、ようやくホーリネスジュニアに会える場所に移動することができました。
会見の様子は、「タラの芽庵便り」のWhat’s Newで紹介させてもらいました。ホーリネスジュニアにお布施とTaraの英訳パンフレットを手渡しました。彼は語学には興味があるとのことでしたが、あまり英語がしゃべれないので、会話が途絶えると、おい、ラーマ・シャルマを呼んでこい、といったたぐいのことを従者に伝える。そうするとラーマ・シャルマが飛んでくるのです。会見では私がほとんど大野博士の日本語のタミル起源説を説明するという形で進みました。会見の後、私は事務局に戻ったラーマ・シャルマにもTaraを一冊渡しました。
会うべき人物に会えて一段落。トラストに戻ると、チェンナイのアイヤーさんの自宅に電話。女性が出て、彼はまだムンバイにいて奥さんの看病をしていると言います。そこでムンバイの娘の自宅の電話番号を聞いておきました。昼食は街中のヴェジタリアンレストランの店でミールス。おいしい。トラストに戻って両親に電話。午後再びピータを訪れました。2年前にあった第69代のホーリネスにも会える。千円札6枚。従者がいくらの価値かを聞く。3000Rだと答える。ラーマ・シャルマの事務室を訪れると、ホーリネスジュニアと三人で夕食を一緒にしようと誘われる。4時半に会う約束で別れました。町中のシルクの店にいって両替をすませ、ついでに妻への土産にスカーフを買いました。4時半にピータに戻るがラーマ・シャルマは、今講堂で大学教授の講義が始まったので聞いてこいというのです。講義は6時まで続きました。第69代のホーリネスも聞いている。しかしタミル語やサンスクリットでしゃべっていたので何も分からない。事務所に戻ると、ちょっと待っていてくれと行ってラーマ・シャルマは出かけてしまう。1時間以上経っても戻ってこないのです。これがインドの時間。書記のバロルシャナンが気の毒そうな顔をしています。ホーリネスジュニアと夕食ができるというのは願ってもみないことでしたが、もうあたりは暗くなってきました。私は他の用事があるから帰るという手紙を書記に預けてトラストに戻ることにしました。
7/21、7時半起床。ピータの事務所に行ってラーマ・シャルマと会う。昨夜ずっと待っていなかったことを謝るが、彼は気にしていない様子。そこで念願だった図書館に行ってヴェーダ関係の本を見たいと告げました。彼は良かろうと承諾する。ピータの構内を歩いていると前日、本をもらったヴィージェイと会う。彼にTaraを一冊渡す。こうして結果的に日本からの「The Letter from Tara」とヴィージェイからもらった「Acharya’s Call- Madras Discourses」が象徴的な交流となりました。(What’s New 更新記事2の写真の左側の黄色い本がそれです。右側はインドで配ったTaraの英訳パンフです。)
さっそくオートリクシャで50キロ離れたエナトゥールに向かいました。ここにはピータが管理する大学と立派な図書館があります。サンスクリットとインド文化に関する学部の学部長ヴィシュヌポティと会う。今回日本からここへ来た理由を話し、彼にもTaraを渡しました。そして明後日にもっと話し合える時間を取ってくれることになりました。
トラストに戻ると管理人のバラダ(Varada)が部屋の掃除をするという。丁寧に掃除が終わったので50R渡す。アンナーハダムの近くを通るとおーい、ジャパーニ、お前もこいよと行って、地元の人々が無料で提供される食事のために門に入っていきます。入ってみるとこの前食事をした体育館のような大ホールで数百人が輪になって食事をしている。他の人々は次の順番を外で待っています。外といってもアンナーハダムの構内は管理が行き届いた庭園もあってなかなか落ち着いたすばらしいところです。この前呼び止められた所長が所長室にぽつんと座っているのが見えました。再びトラストに戻り、前日チェンナイのアイヤー留守宅に電話して教わった電話番号を携帯でかけてみる。通じた!ムンバイに。最初はアイヤーさんの娘が出る。アイヤーさんも元気そう。奥さんは相変わらず病院だと言います。私はどうしたら良い?と、予定では今頃このカーンチで落ち合うはずだったアイアーは、すまなさそうにしている。いや、あなたがメータさんなど事前に紹介してくれていたからこそ、ピータは自分を歓待してくれたのだから、それだけでも感謝している。しっかり奥さんの看病に専念してほしいと答えると非常に悦んだ様子。またピータを去る前に電話をすると約束して電話を切りました。ところで海外でも使える日本から持参した携帯(au)はインドの携帯や自宅の電話に直接つながるが、逆にインドの携帯からはつながりませんでした。インドの携帯はほとんどがノキア製です。インドの携帯からauの説明書どおりに電話してもらってもだめだった。auのセキュリティが高いのか、あるいは日本の携帯は国際規格にあっていないのか、よくわかりませんでした。
夕食はいつものヴェジタリアンの店でイドリとおいしいサンバーバダイ(SambarVadai)。大きい厚揚げのようなものがカレースープに浸してある。トラストに戻ると、よく停電する。そうすると隣のホテルのダイナモがウーンと回りだします。停電したら係員がボタンを押すようで、停電の時間が短いと押さないが、そのタイミングがいつもちぐはぐなので笑ってしまいます。
7/22(水)7時半起床。下着洗い。時々思い出したようにお湯が出る。エーカンバラナタール寺院へ。寄付として100ルピーと写真代を要求される。奥には入らないことにして外観だけ見て帰る。歩いてトラストに戻る。トラスト前のシルクストアへ。オートリクシャの男が20Rでもっとよい別のところへ連れて行くと言います。待ち時間もとらないという。ずいぶん遠くまで行く。不安になる。ところがそこはなんと一昨日、両替に行った店でした。あと4枚スカーフを買う。オートの男は店からマージンをもらえなかったのでがっかり。かわいそうなので50R渡す。トラストに戻ると明日、エナトゥールの大学の学部長ヴィシュヌポティとの再度の会談に備えて勉強する。夕方息子に電話。元気そう。目の前のカーマクシ寺院の祭の声を聞かせる。夜はマントラと、花火がにぎやか。前述したように寺院の外に小さな山車も出て楽隊や象と一緒に練り歩いています。
7/23(木)朝は涼しい。10時過ぎ、再びエナトゥールの大学に行く。大学の事務総長に会って、団らん。彼にもTaraを渡しました。その後サンスクリットとインド文化の学部長ヴィシュヌポッティー博士と約束した通り再度会談することができました。40代後半くらいのまじめで落ち着いた紳士でした。会談の中で私はインターネットのニュースで見た化粧品会社ユニリーヴァの話をしました。ワールドエンタープライズの化粧品会社ユニリーヴァが石鹸をインドの農村で売るためにインド農村の小学校と提携した運動を繰り広げている。会社は教師に、教師は生徒に、生徒は家庭に、衛生上、石鹸の必要性を説き、一個でも多く石鹸を売り込む戦略。薄利でも何億の農民に売ると莫大な利益が入り込む。こうして農村にも出来るだけお金を使う商品経済が入り込み、より多様な需要や欲求が村に入り込む。村人はそうした品物を手に入れるために、今まで以上に働かざるを得ない。しかしインド全体でこのカーンチだけはまだユニリーヴァが進出していない。このような状況をあなた方はどう評価し、今後どう対応していこうとしているのかと。
私の話に博士はぽかんと口を開け、一瞬唖然としています。しかしやおら話しだすと堰を切ったようにしゃべります。どう対応するのかと?どうもこうも出来ない。とにかくここは目の前にある有無を言わさない現実がすべてなんだ。ヒンズー教徒だけでなく、キリスト教徒、ジャイナ教、仏教、無信教派(神何ぞは存在しないと主張する団体で、街中に設立者の銅像が建っていた。)様々な教徒が混在している。階層の混在化はもっと深刻だ、数十というジャーディーが混在して生活している。この混在、混沌、多様性が現実であり、我々はこの現実の中で生きている。外部から来たあなたは、この我々の現実をどれだけ理解し、どうしようと言うのだろうか。そんな声が聞かれました。
つまるところ、私は大学時代に学んだマルクス経済学の理論を、何処にでもある商品経済の進化に伴う矛盾として、インドの現実にただ当てはめただけでした。だからこれからどうしたらいいのだと逆に問われると、何も言えないのです。ただニュースが示した地図で明らかなのは、ユニリーヴァが進出した地域として真っ赤に塗られたインドの中で、唯一このカーンチプラムを中心としたタミルナドゥ州のみがまだ白くなったままだったことです。しかしそれも時間の問題だという気もしました。タミルナドゥ州でも大都市チェンナイからカーンチプラムにかけて日本の自動車産業など近年の海外企業の進出には目覚ましいものがあります。彼らは現地人を安い給料で雇います。先進諸国に比べて格段に安い給料ではあっても、彼ら現地の人々からすれば、企業で働けるということは、今までの貧困から抜け出せる可能性が十分あるということです。それが最善の道なのかどうかは、私が「タラの芽庵便り」でガンジーの言葉などを引用して述べたように、なかなか難しい問題になってきます。それも成熟した資本主義を経てきた我々日本人の観点をも前提とした話ですから、ますますややこしくなってきます。
ヴィシュヌポッティー博士は言います。すべてが過去の遺物として否定的に取り扱うべきではないが、変わるべきものは変わるべくして変わる。人々は企業に雇われ、表面上の生活は豊かになる。若者たちはサンスクリッドやヴェーダを学ぶよりも、企業への就職に有利な科学技術の方を学ぼうとする。この傾向を我々は嘆くことも、当然のことと認識することもできる。先ずこの重い現実の認識から出発しなければならない。現実の重さの中で私たちは変わるべきものの兆候を察し、耳を澄ませていく。しかしそこからは現実の矛盾、多様性、この混沌とどうしようもないむなしさの共存しか聞こえてこないかもしれない。しかしそれが我々が目にせざるを得ない現実の生活なのだ、と。
次に私は、彼に現在のピータの最高指導者ホーリーネスジュニアの後継者はいるのかと尋ねました。チベットのダライラマと同様に、ピータの後継者は高僧たちが協議してタミルナドウ州を捜し歩く。15歳になった少年、叡智にとんだ少年を捜し歩くといいます。選ばれた少年の両親は、将来独身で過ごし普通の生活の出来なくなる息子を悲しみ、最初は拒否するが、最後は説得させられる。少年はタンクと呼ばれる水浴場に全身を浸して立ち上がると後継者であることを宣言し、その後ピータで英才教育を施される。神格的な存在であり、今のホーリネスジュニアもピータの施設内の公衆の面前に現れると信者たちは一斉に立ち上がります。ヴィシュヌポッティー博士に言わせると、まだ後継者は見つかっていないということでした。
会談を終えて、私は構内にある、立派に聳え立つ図書館へ向かいました。図書館長ラーマクリシュナ博士と会って、ここでもTaraを渡す。ゆっくり過ごして自由に本を読んで良いと言います。本を探して読んでいると事務員がコーヒーを持って来てくれる。The Hymns of Rig-Veda 著者はインドのT.H.Griffith。 西洋の学者は言葉の解釈だけで、言葉の朗唱や宗教儀式には理解を示そうとはしない。本の中でそう批判していました。
古代文献の解説書をノートに取りながら読んでいると、図書館長が古代からのヴェーダ文献が収納されている部屋に、特別に案内すると言います。そこには膨大なマニュスプリクト、パームリーフに書かれた何十万枚もの古代文献が保管されていました。数人の若い研究者たちが古くなったパームリーフを、一枚一枚汚れを薬品に浸して丁寧に洗い流し、乾燥させている。そうして文字が読めるようになったものを写真に撮って、デジタルとして保存する作業も別の部屋で続けられていました。何千年前の全世界のパームリーフがここに集まってくるといいます。逆に言えば古代、サンスクリットで書かれたヴェーダ文献はここから全世界に広がっていった可能性もあります。ここカーンチが世界の人類のへその緒と言われるゆえんです。(大学や図書館の写真はPhotoに載っていますのでご覧ください。)
図書館への行きのオートリクシャは昨日シルクストアに連れて行ってくれた男が運転手で100Rとられました。帰りは別の男だが60R。あの男に結局してやられたわけで、こうして情けがあだになることもあります。トラストに帰って水を浴びようと思ったら水が一滴もでない。管理人の青年ヴァラダが徹底的に調べるがだめでした。業者を電話で呼んだが、その前に水が出る。お湯も出る。シャワーを存分に浴びて、ベッドに横になる。アイヤーさんと会える予定がなくなったので、バスで親切にしてくれたSaijo青年に連絡してみる。通じた!覚えていてくれて、早速今晩8時半にトラストに来るというのです。
サイジョーは夜9時頃バイクで兄と一緒に現れました。兄とは途中で別れてサイジョーと二人で彼の知っているおいしい中華レストランで夕食をとりました。サイジョーは息子と同じ27歳。プロテスタント教会を運営する父の手伝いをしていると言います。明日彼の家を訪れることにしました。朝食はどういうものを食べるのか、何がいいかを聞いてくる。そして母親に日本人のためにおいしい料理を作っていてくれるように携帯で電話していました。
7/24(金) 約束した9時にトラストの玄関前で待つ。サイジョー 10時に到着。オートリクシャでサイジョー宅へ。これがインドの時間観念。30分遅れるのは許容の範囲。しかし1時間遅れたのでサイジョーは謝っている。自宅はプロテスタント教会に併設。サイジョーの両親、兄夫婦等家族全員の暖かい持てなし。このプロテスタント教会を運営する父親は、さっそく私にこの地区のヒンズー教の重鎮が自分の教会を訪れた写真を見せてくれました。キリスト教の教会にヒンズー教の教祖格が訪れるのは珍しいことらしい。私がヒンズー教の施設に泊まっていることから彼はこのことを強調したかったようでした。といっても逆にキリスト教徒がヒンズー教の寺院等を訪れることはないのです。それが狭隘だとか宗教としてまずいとか言うつもりはありません。人格としてのイエスキリストを中心に据えるキリスト教そのものの宿命のように思えます。一方イスラム教や仏教は他の宗教の許容に関してはもう少し穏やかです。そしてヒンズー教に至ってはお互いの宗教を認め合うことまで許容されます。インド北部では、イスラム教徒との排他的な争いも見られますが、それは原理的な対立ではなく、きわめて過去の民族的、歴史的な背景によるものです。ヒンズー教の教えによれば、その人がどのような宗教に属するのか、あるいは無宗教で生きていくのかは、その人の生まれながらの本質が根っこにあり、それが育っていくことの結果だと言います。したがって、その人が出会った宗教や非宗教の中で、人はそれぞれの自己実現を図っていく存在だということになります。
しかしながら、だからといってヒンズー教に宗教としての厳しい戒律がないということではありません。寛容な宗教ではあっても、寺院の奥までは、我々ヒンズー教徒以外のものは決して立ち入ることが許されません。多様で厳格な儀式が定められており、そのなかで特にマントラを唱えることは重要な意味を持っています。他の宗教と同様に、理屈や言葉による理解ではなく、唱和や行動が伴うことが重要だと言います。そしてそうした日々の宗教的な儀式は、仏教やキリスト教のようにグローバルに広がるというよりも、身近な地元の人々の生活と密着した形で営まれているのです。ムルガンやターラ、ヤクシーなど地元の神々とも結びついて地元に根付いているのです。この土着性とグローバルな普遍性の奇妙な融合がヒンズー教なのではないかと思います。
サイジョーの家では、さっそく彼の母親が作ってくれた朝食をごちそうになりました。フレンチトーストとチキンカレー。チキンが骨ごとやわらかく煮込んであって非常においしい。トーストとコーヒーも本当においしい。おいしく食べる私をみんなが喜んでみています。
食後、サイジョーの部屋で教会の催しのビデオも見せてもらいました。父親は多くの信者の前で教えを説いており、やがて音楽とともにみんなが踊りだす。そうしたなかで何かに取り付かれたように痙攣を起こす信者、その信者を抑えて何かを唱えると信者は穏やかになる。サイジョーはデビルが彼の体内から出て行ったのだと説明する。最もあまりこういう場面を強調すると何かオカルト集団と間違えられるかもと自嘲気味に言います。サイジョーの兄も別の教会で神父をしているとのことでしたが、彼の美しい妻と一緒にここへ来ていました。彼らと団欒したあとサイジョーと町に出て昼食。おいしい料理の食べ過ぎと疲労でトラストに帰って休みました。部屋に入るとすぐに、まじめな青年ヴァラダが掃除に来ました。
7/25(土)朝方5時頃、カーマクシ寺院の中から実にすばらしい女性コーラスをバックにした女性歌手の見事なマントラの独唱。ベッドに横になったまま聞き惚れてしまいました。再びピータへ。書記のバロルシャナンに小さな財布と100円玉を。事務室に待ち合わせた老婦人から、寄付はいくらしたのか。インカーネーションは済んだのかと聞かれる。ラーマ・シャルマに記念に母が革細工で作った財布を渡す。他のものにも別れを告げたいといって事務室を出る。最初にピータで出会った感じのいいおばさんが、あなたは再びホーリネスジュニアと会見できるのでこのまま待てという。待てども誰もあらわれないのでいったん歩いてトラストに戻りました。
戻るとヴィルヴァムから電話があったという。電話をしたが彼は出ない。そこで再びピータへ戻りました。ヴィルヴァムに会うと玄関ホールで待てという。1時間ほど待っていると祭壇にホーリネスジュニアが現れる。ホールにいた信者たちは一斉に立ち上がる。一瞬、ホーリネスジュニアと私の目が合う。最初にあったときトラストを手配してくれた若い僧侶が私に向かってきて3時にここへ来いという。レストランで昼食をとってトラストに帰る。ムンバイのアイヤーにお別れの電話。ピータでの生活は充実したものだったと言うと彼は悦ぶ。
再び3時にピータへ。玄関の祭壇で待つ。やはり30分遅れてヴィルヴァムが現れる。例の奥の方の拝礼場所の手前のホールですこし待てという。メータがいた。彼と話をする。私のTaraを読んでくれたという。ヒンズー教の文化に関する本をいろいろとメモって教えてもらう。お別れの記念にホーリネスジュニアの写真がとりたいというと、彼が掛け合ってくれるというのです。4時にいよいよジュニアの前に。彼の部屋の入り口の会見場でまだ数人の信者が教えを乞うていました。しかしその雰囲気は宗教的な厳格さではなく、何となく井戸端会議のような親しみを覚えるものでした。ジュニアも宗教者というよりも近所付き合いの親父といった感じで信者に接しているのです。私の番が来ました。ジュニアにお別れを言うと、横にいたメータが写真の許可をもらう。そこで奥に下がろうとするジュニアの写真を撮ることができました。写真を撮るとジュニアは部屋の中へ入れという。普通の人は入れない部屋のそのまた奥の部屋に入って行きました。(そこでの模様と写真はWhat’s Newの会見記に掲載しましたのでご覧ください。)帰り際にジュニアから大きなザクロと首飾りをもらいました。こうして今回の旅の主要な目的であったピータでの出会いを終えたのでした。夕方トラストから娘に電話。彼氏と隅田川の花火大会が終わってレストランで食事中でした。こちらでもホーリー祭の花火があがる。音だけはものすごく大きいが形は日本のように完全に丸くはならないのです。
7/26(日)7時起床。予定より一日早くカーンチプラムを発ってチェンナイに向かうことにしました。サイジョーもチェンナイに用事があるので一緒に行ってくれるという。カーンチのバスセンターの表示はすべてタミル語でどのバスがチェンナイに行くのかわからないし、バスに乗るとすいているのかもわからない。一人旅だとこんなところに気を使ってしまいます。サイジョーのおかげで安心してチェンナイに向かうことができます。8時20分にトラストにサイジョーの兄がバイクで迎えにくる。トラストの管理人や守衛たちに別れを告げる。みんないい人たちでした。教会に着くと日曜の礼拝が始まっている。サイジョーの兄の妻が、自分が教えている子供たちの教室で日本の説明をしてほしい。自分が通訳するという。二階の教室に小学生程度の子供たち20人ほどが待っていました。日本はどういうところかを説明する。どれくらい遠いのかと質問される。最後に日本語の「ありがとう」を教える。別れ際に子供たちが大きな声で「ありがとう」と大合唱。一階のホールにおりると、信者たちの前でも演説をさせられる。日本とタミルの文化の相違を学ぶために勉強に来たと説明する。サイジョーの父からシルクの高価な肩掛けをもらう。ミサの後はおいしい昼食。サイジョーの母親が作った卵焼きがものすごくおいしかった。ねぎがいっぱい入って昔幼い頃に食べたような懐かしい味でした。おいしい果物も。お礼の千円札新札をみんなに。描かれている野口英世について説明する。貧しい家庭に育ち、苦学の末医者になり、アフリカで黄熱病などの病で困っている人々の治療に当たったが、自らも黄熱病にかかって亡くなったと。サイジョーの兄が車でバスターミナルまで送ってくれる。別れの挨拶のときいなかったお父さんはと聞くと、仕事で出かけたので、自分が「ダイリ。ダイリ。」という。何処で日本語を覚えたのかと聞くと笑っている。車はトヨタのランドクルーザー。インドではなかなか手に入れることの出来ない高級車。兄も近くの教会の牧師ということだが、おそらく何か事業をやっているのでしょう。日本企業と関係があるような。インドでは企業ではなくこうした個人が友人同士の緻密なネットワークを使って事業を行っているのです。例えば中国から安いタイルを仕入れてインドで高く売るとか。華僑ならぬ印僑の流れを汲んでいるのかもしれない。バスターミナルではちょうど来たエアコンバスにサイジョーのお陰で乗ることができました。値段は張るが快適!再びチェンナイに到着。大きな都市です。サイジョーの友人が経営しているホテルに泊まる。安いがエアコンの調整も出来ず、穴蔵のような部屋でした。
7/27(月)とうとう61歳の誕生日。9時半に親戚の家に泊まっていたサイジョーが迎えにくる。スペンサープラザでインド料理の香辛料とカシミアを買う。カシミアはサイジョーがとことんまで値切ってくれました。午後からは、ドラヴィダ文化の総元締、チェンナイ大学へ。哲学科主任教授のゴーパラクリシュナに会う。日本とドラヴィダ文化の共通点や工業化が著しいチェンナイの状況とドラヴィダ文化の保持について話し合う。日本には非常に親近感を持っているようだった。あれは日本の文化だと言って、部屋に飾ってある日本の生け花の写真を示す。今、チェンナイはスモッグがひどく、環境は悪化するばかりだが、心配は要らない。我々はしっかりと我々の伝統を守り抜いていくという言葉が返って来ました。彼にも一部Taraを渡す。
夕方は警察本部の建物でサイジョーたちの教会の信者だと言う知的な女性高官と会いました。サイジョーたちの教会の信者は警察官が多いという。その理由は、彼らは偉くなれば、残業が続きほぼ24時間家族とははなれた生活をしなければならない。そのため家庭が崩壊し、拠り所を失った警察幹部たちが教会を訪れるというのです。その後夜のチェンナイ海岸へ。砂浜で気持ちよく馬を走らせる人たち。屋台の明かり。そして遠くにチェンナイ港。夕食はとびきりうまいビリヤーニとタンドリーチキン。イスラム教徒がやっている場末の、テーブルが4つくらいしかない粗末な食堂でしたが、こういう穴場をサイジョーはよく知っています。ホテルへ戻る前に彼の父親に鞄を買ってあげる。ホテルは、昨夜は最悪だったというと、サイジョーが友人と掛け合って、同じ値段で格段上の部屋に変えてくれる。全然違う部屋。ゆっくり休む。これでTaraを持参してインドの人々と話し合うノルマはすべて終了しました。(以上に関する写真もPhotoに掲載しましたのでご覧ください。)携帯には娘から誕生祝いのメールが届いていました。明日は、もう一度行ってみたかったコルカタに向かいます。
7/28(火)7時起床。10時半にサイジョーがホテルへ。一緒にチェンナイの空港へ。彼にお礼の1000Rを渡す。まじめで良い青年でした。君のおかげでいろいろと助かったというと、人生の経験者として何かアドヴァイスをくれというのです。様々な宗教があるが人間にとって目指すところは一つだ、君自身の中に神がいると話しました。神妙に聞いてくれた後、しっかりと握手しました。コルカタには、インドでは珍しく、ほぼ定刻に到着しました。
空港からホテルまでのタクシーはプリペードで230R。かなり安い。おんぼろタクシーだが、大通りではなく、近道になるらしい貧民窟を通ってホテルへ向かいました。貧民窟のど真ん中をのろのろと走ります。タクシーの窓から見た光景は衝撃的でした。暗く、どんよりとして、人々はうごめいているが、どう表現したら良いのか分からないほどすべてが淀んでいるのです。なんだか分からないが停滞しているのです。南インドにも貧民街はありましたが、これほど悲惨で暗くはない。貧しいなりの明るさがあった。しかしコルコタの貧民街は違います。崩れそうな板塀やトタンの家々がひしめき合い、汚水と泥にまみれ、暗く陰鬱で、なんとも絶望的な雰囲気なのです。すべてが暗い灰色で、そうした中でうごめく人々の眼がかすかに光っています。2年前半日ほど途中下車したコルカタのイメージがよく、今回は旅の疲れを癒すためにのんびりしようと思ったコルコタ。このイメージが一変したのです。取り残されたコルコタ。暗くどんよりとした光景に、私はすっかり落ち込んでしまいました。
しかし貧民街を過ぎて、裏通りからサダルストリートに近づくと、二年前に訪れた街並みが思い出されて、少し気分を晴らすことができました。サダルストリートの中心地で予約しておいたホテルは、まあまあでしたが窓がなく暗い。妻に電話。息子から自宅に、私の誕生祝いが届いているという。荷物を置いて通りにでると、2年前に利用したインターネットカフェが見つかる。パスポートを見せたり、2年前と比べて手続きが厄介でしたが、値段はやはり10Rと安い。息子にお礼のメールをする。同じく2年前にはいったブルーカフェで食事。隣のテーブルの西洋人の女性が、気分が悪くなったのか、叫んで急に倒れ込み、連れ合いの男性に介抱されている。
店を出て陽が落ちてきた通りを歩いていると、暗い影の男がハッシシはいらないかといつまでも付きまとってきました。
7/29(水)9時、ホテルで食事。窓のない部屋に堪えきれなくなり、近くのリットンホテルへ移動することにしました。ワンランク上で、値段ははるが、窓が大きく開放的で快適な室内でした。ゆっくりしてから今回訪れたかったコルカタ博物館へ。しかし思ったほどではない。館内はどこも暗く、展示品もただ置いてあるというだけで、がらくただらけの部屋も見受けられました。取り残されたコルカタ。Taraという名の豊満な女神像と出会ったのが慰めでした。(写真はPhotoに)博物館を出るとガイドブックに載っていた中華料理店に行く。チャーハンがおいしい。ラーメンも。全部で260円。3人前ほどの量の食べきれなかったチャーハンは紙箱に入れてもらって持って帰ることができました。
7/30(木)8時半起床。ホテルでバイキングの朝食。カーリーガート寺院へ。ボランティアと称する59歳の男が案内。そのときは終了していたがヤギの首をたたき切る儀式が毎日行われるという。犠牲にしたヤギの肉は調理して貧しいものに施されると言います。境内は多くの信者で身動きがとれないほどの混雑ぶりです。水が湧き出てくるというガートでは信者が沐浴をしていました。
昼食はJoJoという店でおいしいパスタ。歩いてガイドブックでは有名なイーデンガーデンに向かう。歩けども歩けども到着せず。途中で聞いてもすぐそこだというのですが。汗びっしょりかいてとうとう到着、全然管理されていない公園。ガイドブックには書いてある信者が沐浴するカーベリー河に行く道もない。博物館と同様にがっかり。観光地と称するところはどこも散らかり放題で、まったく管理されていない。「地球の歩き方」の編集者はここ数年の現場を見ていないようです。取り残されたコルコタ。ホテル近くのレストランカルサでチキンカレーとラッシー。明日のシンガポール経由で成田に向かう飛行機の出発が夜中なので、ホテルの滞在を夕方6時まで半日延長。テレビは国会中継とアニマルプラネット。2年前もそうでしたが、インド人は政治と動物の番組が大好きです。
7/31(金)8時起床。バイキング朝食。近くのエアコンが効いたマーケットで買物。夕方6時、事前に頼んでおいたドライバーが来ない。5分だけ待つとホテルに言うと、15分待てという。これがインドの時間観念。それでも来なかったので他のタクシーに。白タク。正規のタクシーではないが距離的には遠くまで行けるらしい。ターバンを巻いた大柄なシーク教徒の運転手でした。ぶっきらぼうだが、何度も飛行機の発着時間を確認しながら、車の洪水の中を、何かやたらと叫びながら、ぐんぐん他の車を置い抜いていくのです。そして信号で止まると、何とハンドルに顔を伏せたまま眠り始めるのでした。いびきまでかいています。ところが信号が青になると、はっと起き上がって運転し始めるのです。信号のたびに、居眠りをし、信号が変わるとはっと起きて運転する神業。びっくりです。ただ何としても時間内に着こうとする気概はすごいものでした。まじめなシーク教徒だからこそかも知れません。帰宅ラッシュも重なった大渋滞の中を、無事空港に到着することができました。夜の空港はがらんとして、たいした店も開いていません。やっと見つけたレストランでヴェジクラブサンドイッチを食べる。すべてのチェックが完了し、ゲート前へ。夜の10時。安全に気を配ってとうとうここまでたどり着きました。
チェックインカウンターでは一番前の席で通路側を頼んだが、満席なのか前から二つ後の席。シンガポールからは全く関係ない窓側の席。これで7時間のエコノミーは苦痛。オープンジョー(周遊のため、目的地に到着する空港(チャンナイ)と再び日本へ出国する空港(コルカタ)が違う場合の切符の買い方)だったので、事前にインターネットで席の指定が出来なかった。これからは確実に席が予約指定出来るシステムで海外旅行をすべきだと思いました。
何とか二度目のインド旅行を、ほぼ予定通り実現することができました。運も味方をしてくれましたが、旅行前の一年間、いろいろと準備をしてきて、意味のある旅にしようと努力してきたのですが、それなりの集中力、注意力がまだ自分には残されているのかなと思いました。
しかしコルカタは誤算でした。包み込まれるような休息を思い描いていた最後の訪問地、コルカタは、まるでSF映画、ブレードランナーに描かれたような世界でした。あの、いつまでも暗く、重たい雨が降り注ぐような映像空間、多くの人々が宇宙へと脱出し、取り残され、見捨てられた未来の地球。コルカタの貧民街も、映画の場面と同様に、取り残され、べっとりと大地にへばりついたような風景でした。この現実、このカオスを誰がどう出来るとでもいうのだろうか。カーンチで会った大学の学部長の話を思い出しました。
しかし一方で徐々に変化しつつあるインド。スーパーもちらほら出来て。それでも本当にインドも先進諸国と同様な道を歩むのでしょうか。チェンナイ大学の教授は、南インドではこれからもドラウィダ文化の伝統はしっかり護っていけると言っていましが。確かに南インドでは日本にはない解放感を味わうことができました。それは、あの宿泊したエアコンも無いトラストの最上階を通り抜ける風のようでした。早朝の空にこだまするカマクシ寺院の見事なマントラの朗唱のようでもありました。そして、それはまたゴミだらけの街並ではあっても、贅沢で余分なものは何もいらないと感じさせられる快適さでもありました。
今回も多くの人々と交流することができました。偶然で出会った好青年サイジョーとその家族、私に68代アーチャリアの講義録をプレゼントしてくれたヴィージェイ、ピータで私の世話をしてくれたメータ、ヴィブラム、事務総長や多くの信者たち、そしてカーンチやチェンナイの大学教授たち。これからも彼らとメールなどでの更なる交流が続くことでしょう。
私のインドへの旅路はまだ始まったばかりです。日本をはじめ、世界は今経済や国のあり方に関してある種の袋小路に入り込んでいます。こうした中で、私はようやく海外の人々との心ある対話のささやかな糸口をつかんだにすぎません。
このグローバルな情報化社会で、英語にしろ、日本語にしろ、言葉がますます形骸化し、生き生きとした価値を見失い、もう一流新聞の字面をたどることにもむなしさを感じ取るのは私だけでしょうか。普通の生活の、真実で身近な問題から、一人一人が自分の考えを自分なりの言葉で築き上げていく作業こそ、世界の果てまで通じることのできる、細いけれども断ち切れることのない一本の道かもしれません。
(10/12/2011)
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