大野 晋 先生へ

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南インドへの道  


 ここでは、先生が亡くなる直前に私が出した手紙について紹介させていただきます。

その一

拝啓
  非礼を省みずお便りさせていただきます。私は現在千葉県庁に勤務しております。先生のタミル語に関する御研究に触発されて、南インドの文化に大変興味を持っております。そこで定年を一年後に控えて、この7月、半月ほどチェンナイからマドゥライにかけて一人で寺院や遺跡めぐりをしてきました。
 先生の御本に関しては、もう二十数年前でしょうか源氏物語について解釈された、岩波書店の古典解釈シリーズ本に感銘を受けたのを覚えています。今回旅行を前にタミル語やドラヴィダ文化に関する御本を一通り読ませていただきました。
 と申しましても、私は言語や古代文化について専門的な知識を持ち合わせているわけではありません。何の変哲も無い一地方公務員として今まで生きてきたわけですが、なんとなく今の日本の文化状況に閉塞感を抱いてきております。退職後の生活にも展望があるわけではありません。自分の内部からやはり何かを見つめなおしていかなければならないという思いでインドへの旅行を決意しました。年老いた母親は親戚などからどうしてまああんなところに一人で、と聞かれて、たぶん自分探しに出かけたのでしょうと答えておいたと言います。六十を間近にして自分探しとはお恥ずかしい次第ですが。
 中途半端な考えで旅立ち、万が一家族に迷惑をかけるわけにもいかないので、一年ほど前からインドに関する知識を習得するなど旅の準備を重ねてきました。紀元前にアーリア人がインド北西部に侵入して以来、ドラビダ人が南下し、南インドに独自の文化を築き、それがまた世界に発信できる普遍性を帯びたものであったということに着目しました。成田からデリーへの往復直行便のため、デリーからバナラシ、コルコタ、チェンナイへと南下し、カーンチプラム、タンジャーブール、マドゥライと巡り、ムンバイ経由で再びデリーに戻るという行程でした。
 カーンチプラムでは先生もご存知かと思いますが、Kanchi Kamakoti Peethamという場所を訪れて、そこの最高責任者であるJayendra Saraswati師に会うことができました。「The Hindu」によると、タンジャーブールの Irulneeki villageで1935年に生まれたということですから現在72歳ということになります。彼は Kamakoti Peethamの先代の最高責任者から教えを受けて第69代の最高責任者となり、別の名をバクティの光という意味のPeriyavaとも呼ばれているようです。また彼は中国やネパール政府からも敬意を表されて出かけたりしているということです。一般の人でも会おうと思えば気軽に会えるということでしたが、まさにそのような感じを持ちました。
 カーンチプラムはシャンカラが晩年をすごした場所らしく、このPeethamでも彼の思想に準じた教えを説いているように思えました。人間の誕生の目的は再生(re-birth )を避けることだといいます。動物は水平的(horizontally)に生きるだけですが、人間は天に向かって垂直(vertically)に成長するのだといいます。そして最終的には欲求も何も無い境地で我々自身の中に神を見出し、すべてのカルマは我々の内部から消えうせてしまう。しかしそのときが来るまでは、我々はカルマに従うしかない、むしろカルマが我々を神へと導いていくともいいます。地球が壊滅し、宇宙が消滅しても、再び力強く世界を構築していくもの、それを我々は神という。破壊と創造をもたらす壮大なエネルギー、それが神だというのです。
 ヒンズー教は仏陀やキリストなどの歴史的な人格が発端として存在しているわけではない。しかし、目立たないが古来から面々と続く、偉大な人格者の導きによってヒンズー教は伝えられてきた。このPeethamも面々と続く最高責任者の教えによって築かれてきた。他の地域での宗教の停滞はまさしくこの代々から続く人格的な承継者の欠如にあるというのです。
 また、カースト制度については、伝統的な階層の区別が逆にそれぞれの階層の義務や責任や果たす役割を明確にして、国民の道徳基準をハイレベルに保ってきたといいます。
 私のたどたどしい語学力の限界から、およそ以上のようなことしが聞き取れませんでした。できればもっと「カルマ」について聞きたかったのですが。自分の思っていることがうまく表現できませんでした。ただ強く印象付けられたのは、このPeethamのひんやりとした静謐な空間でした。通りからちょっと入っただけの、むしろ粗末ともいえるさりげない入り口、舞台と部屋に区切られ、そこで人々が静かに祈りや問答や教えを行っている空間、ここでの静かな落ち着きは何なのだろうと思いました。そして古来からのヴェーダの教え、その普遍的な思想は、まさしくこの村、この場所、ここにいる人々の支えによって生きてきたのではないか、むしろこの場所で続いてきたからこそヒンズー哲学の普遍性がもたらされているのではないかと思いました。
 カーンチプラムからタンジャーブールに向かう途中には先生も書いておられる、Sanurの環状列石を見学したかったのですが、事前にチェンナイ行政府へ問い合わせたところ、現在国が調査中で一般の見学用には整備されていないとのこと、今回はキャンセルすることにしました。
 今回の旅の最南端はマドゥライでした。ミーナクシ寺院を見学して、先生もご存知の近くのティルマライ・ナーヤカ宮殿、イスラム建築とヒンズー建築が融合した遺跡を訪れたときのことでした。私が一人、宮殿内の広場で腰を下ろして休んでいると、一人の青年が私の前を行ったりきたりするのです。そして「アーユーネイティヴ?」と聞いてきたのです。私の顔が原住民に見えたのでしょうか。確かに彫りの深いアーリア人ではない、鼻が低く、浅黒く、ドラヴィダ人に近い容姿です。先生のお話ではここ南インドから日本までは海路はるばる7000キロであったといいます。もしかしたら自分の遠い先祖はここからはるばる日本へと向かったドラヴィダ人だったかもしれない。そう勝手に想像すると、なんとなくうれしく、ほんのりした気持ちになりました。そして「ケイムフロムジャパン」と答えると、青年はにっこり笑って遠ざかっていきました。
 その後私は飛行機でムンバイに飛び、アジャンタ・エローラを見学して再びデリーに戻ってそこからJALで帰国の途につきました。

 16日という短い期間でしたが、先生の御本を初め、インドについての知識の習得に時間をかけてきたこと、それにいまだインドから何を学んだのか自分なりの整理がついていないことなどから、ずいぶん長い期間インドへ旅行している錯覚に陥ります。
 私が大学の経済学部に入学したのは昭和43年でした。九州の片田舎から出てきた私には、全共闘派の学生が次々と著名な大学教授をつるし上げるのを見て、当初はなんと言う失礼なことしているのかと憤慨したものです。しかしだんだんとお互いの主張を聞くにつれて大学の先生たちにも問題があるのかなと思うようになりました。それは学問とは何か、学問は今の社会でどの様な役割を果たすべきなのか。今の社会はどのような社会なのか、ということについて明確に答えようと努力する先生たちがいかに少ないのかということでした。そして私にはその折全共闘の学生たちが批判した日本の文化の閉塞感がいまだ持って続いているように思えて仕方がないのです。結局私は学生のストライキ中、大学の図書館に通って自分なりの知識を習得するほかありませんでした。しかし机上の知識の習得だけで何がわかるというのでしょう。
 先生は長期間にわたってご滞在されたのでしっかりしたインドの知識をお持ちのことと思います。にわか勉強の私ですが、先生も述べておられるようにインドの赤茶けた台地、そこで生活する様々な階層の人々。人々の土地があり、そこで根付いた教えがあり、それを教える人、教えを受ける人があり、それが面々と続いている大地インド、現在の日本の閉塞感とは無縁の大地インド!そんな気がします。

 帰国するとチェンナイ行政府からメールが届いていました。最初私にメールしてSanurの場所や国が調査中であることを連絡してくれた次席の人ではなく、Dr.Vasanthiという考古学部のセクションチーフと思われる博士からのものでした。博士の手紙にはSanurにはDr.Ohnoという人が1984年に調査に来たことがあると聞いている。彼は日本文化とタミルナードウの文化が非常に似ていると言っていた。そして今回は失礼した。次回またインドに来ることがあったら遺跡を案内するのでぜひ連絡してほしいと書いてありました。私はもし機会があったらぜひ連絡する。ところでオオノ博士は日本の著名な国語学者で、おっしゃるとおり、日本語の起源にタミル語がかかわっているということを、言語のみならず風俗習慣等の文化面からも、深い洞察力を持って研究されている方だと返事しました。
 またKamakoti Peethamには、これからメールで疑問点を問い合わせることになると思いますが、しかしお互いが論理的な帰結で理解し会うことはないのかもしれません。私自身ももはや理屈だけで、言葉の整理だけで満足しようとは思いません。むしろそのような言葉の巧みな整理で飯を食っている大学教授や評論家、知識人が日本ではいかに多いことでしょう。それよりもあのKamakoti Peethamの清貧な空気、地元の人々の信頼、学ぶ人たちの静かな自信、こうした空間と人々の表情こそ世界に多くを語りうるのではないかと思っています。

 身も知らぬものが止めどもないことを、しかも生来の乱筆ゆえ、パソコンの横書きで書き連ね大変失礼いたしました。先生の御本から浅学ながら取得させていただきました知識が、今回のインド旅行でも大いに役立ったということ、またドラヴィダの現地を訪れて、私にとっては違和感の無い気候、違和感の無い食事、人々の違和感の無いしぐさや表情に接して、ドラヴィダの文化がますます身近になるような気がしておりますことをお伝えしたく、ぶしつけながらお便りさせていただいた次第です。
 本当にありがとうございました。
 今後とも、先生のご活躍、ご健勝を心から願っております。
                                   敬具
                                            
 平成19年8月28日

 

その二

拝啓
 先日はお電話をいただきありがとうございました。失礼なお手紙を差し上げたのではないのかと思っておりましたが、先生自ら新刊のご案内までいただき、大変恐縮しております。早速岩波新書の御本を購読させていただきました。
 電話を受けた妻は、最初に出られた方はもう少し若かったような気がすると言っておりました。御本の中で夜遅くまでご自宅の食堂でドラヴィダ語の研究に没頭されているお姿をご長男が覚えているという記述がありましたので、最初は息子さんが出られたのではと妻とも話していたところです。御本では、こうした先生のたゆまぬご努力とご苦心も垣間見られて、楽しく読むことができました。今回、先生は、今までのお考えを我々素人にもわかりやすく整理し、伝えるということが、学者にとって究極の目標ともいえるほど非常に大切なことだという御自覚のもとに出版されたのではないかという印象を強く持ちました。

 第一章の「タミル語と出会うまで」での本居宣長や源氏物語についての記述は大変興味深く読ませていただきました。島崎藤村が「夜明け前」で主人公の半蔵に「恋というものが宣長翁にあってはどれほど人生の一大事であったか」と言わせている場面を思い出しました。源氏物語は原文では全部読むことができず、与謝野晶子と谷崎潤一郎の訳で読み通しましたが、晩年にいたるまでの若紫の人格描写は見事であり、後段の宇治十帳にしても近代的な心理描写に引き込まれるかのごとく、暗い川の流れのイメージがいつまでも残ったのを覚えています。
 第二章「言語を比較する」では冒頭部分で「再現すれば、タミルと日本とその二つの言語が接触し、文明の力の差によって、文明力の弱かったヤマト民族が文明的に強かったタミル語の単語・・・を自己流の発音で覚え、さらに文法も覚え、五七五七七の歌の韻律や係り結びなどまで取り込んだ。」と書いておられる文章が非常に重要だと思いました。
 文明の力の差というのは、どちらの文化がより人類にとって普遍的なのかとも言い換えることができると思います。つまりより普遍的な文化は人類にとって共通の財産なのだという認識が大切だと思います。より普遍的な文化は、浸透圧のように空間的に広がらざるを得ない。ジャワ島まで広がったインド南部の文化は、必然的に北上せざるを得ない。航海で失敗を重ねたにしても、行き着くところに行き着かざるを得ないと思うのです。強い文化、より普遍的な文化は広がらざるを得ない。そして当時海上交通が有力な浸透手段であったことから、失敗を重ねたにしても海上を経由して、それも普遍性がより充実して開花する方向へと広がっていかざるを得なかったと思うのです。それが普遍的な文化というものの宿命だと思います。
 ですから大切なのは、このドラヴィダ文化の普遍性は何なのか、この普遍性が日本でどう開花し変容していったのか。そして今この普遍性に我々は何を読み取るべきなのかということであり、それを先生は見事に解明されてこられたと思います。物質文化面では、先生が強調しておられるように稲作とそれに伴う生活様式は、普遍的な文化として大きく浸透していったわけですが、それらと絡み合った精神文化面での浸透と変容は、まだまだこれから解明されるべき分野も残っているのではと思われます。先生が最後に「雪国」の冒頭の文章を引用して、文化は言語を伴って、これからも変容を続けていくものだと述べられたことは非常に重要だと思いました。
 今何が普遍性なのか。普遍性としてそこに何を我々は読み取るべきなのか。欧米の市場経済中心の民主主義は社会体制として永遠に普遍的なのか、それともそれらより、より強力で普遍的な文化によって変容させられるものなのか。私たちの疑問と課題はまだまだ尽きないように思えてきます。
 また、第二章の単語の対応では、「さびしい」や「あわれ」といった日本人の基本的な感情の表現がタミル語に由来することに興味を持ちました。そしてなによりも「もの」の対応は重要だと思いました。特にものにつかれるとか、もののけの「もの」の対応には、人々の強い心の思いそのものの威力を考える上で今後とも一層考察を進めていくことが出来るのではないかと思いました。
 第三章「文明の伝来」では神についての解明に興味を覚えました。マツリ、コトホグ、イム、ヨリマシ、モノ、ツミなどの言葉について私は今まで折口信夫の考え方に教えられるものがありましたが、これらが南インドに由来するということを念頭におくと折口の考えをさらに深く掘り下げていくことができそうな気もしてきます。先生が神について整理された中で述べておられるように、「カミは漂動していて、人間が招請すると来臨した」という事態がタミルでも「神懸かりして依代に寄り付き、託宣する」という事態に対応するということになると、日本の飛鳥、奈良時代の祝詞や託宣がタミル文化と密接につながっていることにもなり、私にとってはますますタミル文化、南インドの文化が身近なものに感じられるようになりました。
 最後の章「言語は文明に随いていく」では、タミル語到来以前の日本語との境界線を示す「一型アクセント地帯」のお話を面白く読ませていただきました。私は九州の宮崎出身ですが、妻は現在住んでいる千葉県東金市の出身です。特に二語の単語、アメ、クモ、カキなどについては発音するたびに妻からからかわれます。文脈から判断できるだろうといっても、いや、お父さんの発音は絶対おかしいといわれてしまいます。妻の姉の夫は栃木出身ですがやはり同様だといいます。しかしいまだもって私には正しいアクセントを身につけることはできませんし、またそうしようとも思いません。妻に注意され続けるのも、夫婦の会話の一部というものだとあきらめています。
 最後に、「アメリカ中心のグローバリゼーションの大波が滔々と寄せている」現状にあって、「連日連夜、浮薄な笑いにひたされることは、かってなかった。これでよいのか。」と嘆かれておられることには、まったく同感です。しかしそれがまた日本の大衆文化を変容させ、大衆労働者層の形成に一役を担ってきたということも事実でした。日本でテレビが出始めたころ、アメリカから「ルーシーショウ」というお笑いトーク番組が輸入され放映されました。ルーシーのお笑いトークにたいして階段状の席に座った観客が大笑いする歓声を同時に中継して座を盛りたてるというものでした。これをまねて、日本ではそのうち歓声の録音だけを、面白い場面に合わせて流すというようなトーク番組も出始め、遠く地方から出てきて都会で働いていく労働者たちはこうした番組で孤独と仕事の疲れを癒していくのでした。
 こうした大衆労働者たちが日本の経済的繁栄をも支えてきたわけですが、いまや世界経済における中国やインドなどの台頭により、日本の大衆労働者層そのものが階層分化しつつあります。企業は優秀な頭脳は社員として厚遇すると同時に、委託できるものは中国やインドに発注し、それ以外の単純労働者は派遣社員などで賃金を切り詰めていくというパタンに変わってきました。この結果いわゆるワーキングプアも出現し、この成熟した先進国日本でひっそりとアパートで病死や餓死するものも出てきています。

 今回、7月に私がインドを訪れて確認したかったことのひとつは、このようなグローバリゼーションの大波のなかで一部のものが経済的繁栄を謳歌する現象に、インドの古来の文化を担う人々はどう対応しようとしているのかを探ることでした。
 デリーはまさしく大波の中で方向を見失っているという感じを持ちました。また、バナラシの大学でも最先端の科学技術分野が優遇されている印象を持ちました。しかしコルコタから南は少しずつ違ってきました。チェンナイでも大企業が進出し、朝方多くの労働者が出勤するのを目撃しましたが、もっと下がってカーンチプラム、タンジャーブール、マドゥライにいたると、そこはまだ多くの古来の文化が感じられる地帯でした。先生が南インドはまったく違うとおっしゃっていた、まさにその通りでした。南インドでは肉類は一切食べませんでしたが、まったく違和感はありませんでした。マドゥライでは肉を食べたくとも、大衆レストランのほとんどはヴェジタリアンのものでした。また、オートリクシャやタクシーなども料金の交渉は代表者が行い、値段が決まれば誰が客を運んでいくかは代表者が決めているようでした。つまり特定のものが仕事にあぶれることが無いような互助組織があるような感じでした。
 カーンチプラムで出会ったグルの一人と現在メールを交わしています。彼はインド国鉄を退職してヒンズー文化の保存に尽くしていますが、今年で80歳になります。現地で会った印象はせいぜい60代で、とても80歳には見えませんでした。この前は自宅のチェンナイからオリッサ州に10日間ほど出かけて、プーリー、コナーラクなどでHomamの儀式を行ってきたとメールしてきました。そこで火の神、アグニを呼び起こし、世界の平和やオリッサ州の繁栄を祈ったということです。原爆や際限ない武力紛争の危機の回避、そして今プーリーで蔓延しているコレラの根絶についても祈ったといいます。コレラについてはわかりますが、世界平和について祈るなど、我々には気恥ずかしくてできないことです。しかし彼らにとって朗々とマントラを唱えることは決して気恥ずかしいことでも非現実的なことでもないようです。彼らは朗誦することによる言葉の威力というものに深い洞察力を持っているように思われます。折口信夫は古来、祝詞などを唱える人が、その場で即神になるというみこともちの思想というものを展開し、神官などが言葉を朗誦することの威力を説いています。このようなことを伝え教え導く神主のような人々が日本のかっての村々には存在し、彼らは厳しい精進のもとに村の人々からも尊敬された存在であったとどこかで言っていたのを思い出します。
 彼が日常的に通うカーンチプラムのPeethamのAcharyaもまたアメリカ中心のグローバリゼーションの波に対しては、非常な危機感を抱いています。カーストがあって初めて南インドの古来の文化は保たれてきた。いまや際限ないコマーシャリズムの中で人々の欲求にも際限がなくなりつつある。何よりもバラモン階級の責任は大きい。彼らはヴェーダの教義を代々子孫に伝えていく責務を負っていた。彼らは清貧に耐え、村の人々に道徳を教える厳格な教師でもあった。それがいまや彼らの一部は政界、財界に進出し、自らが欲求のとりこになるお手本となってしまったと嘆きます。
 こうして南インドで私は経済的な繁栄を嘆く古来文化の伝承者に出会うことが出来ました。しかし彼らのあとの若い力が、このグローバリゼーションの波の中で、どう古来の文化を受け継いでいくのかはわかりません。若者はやはりどこでもバイクなどを飛ばして楽しんでいます。

 しかしどうでしょうか、南インドの文化に今なお人類の進むべき普遍性を見いだすことが出来るとしたら、このグローバリゼーションを逆手に取ることによって、人類の未来に強力で、具体的な警鐘を鳴らすことができるのではないでしょうか。市場経済社会、自由主義経済社会、自由主義、民主主義社会といわれて我々が謳歌してきた社会は、実は今までの人類の歴史の中で、理不尽な悪や軽薄さを最も野放しにする社会ではなかったのか。形式的な「自由・平等」が地球上の至る所で、非情な痛みを伴う不平等を導き出すシステムではなかったのか。そうではなく人々がそれぞれに自分を見出す社会、それを促す人、教える人、教えられて成長する人。そうしたシステムを、我々は古来の文化の普遍性を学ぶ中で取り戻す時期に来ているのではないのか。ドラヴィダ文化を摂取して発展してきた日本人も、こうした一翼を担う困難な作業に取り組む必要があるのではないのか。少し飛躍的過ぎますが、そうしたことも考えたりしています。

 今回の先生の御本は何よりも我々素人にわかりやすく話され、またそのことにより、理解しようとするものに、理解させるだけの説得力を持つものであることに感銘いたしました。それも先生の長い学究生活のたゆまぬご努力があってのことだと思われます。その延長上に60歳からのタミル語との出会い、そしてその後の驚異的なご努力による、大野学ともいえる国語学の集大成が実を結ぶことになったのではないかと考えております。
 それともうひとつ、国語学というものが狭い意味での学問の次元にとどまることなく、現代の私たちの生活のあり方や生き方にも深くかかわる提言ができるということを先生は示されました。学問の本来の目的はそこのところを無視することは出来ないわけですが、先生は我々の言葉を遠く7000kmはなれたドラヴィダ文化と関連付けることによって、これからの社会や人間生活を考える上で、私たちに希望と可能性を与えてくださいました。

 ありがとうございました。
 これからも、お元気でご活躍されることを心からお祈り申し上げます。
                              敬具
                                            
 平成19年10月16日

 大野 晋 先生

 

この後、先生からは病床からと思われるお礼のはがきをいただきました。