ヴェーダは紀元前1500年から紀元前500年頃にかけてインドで成立した宗教的、哲学的な文献で、基本的には口承によって伝えられてきました。我々の心というものは皆が全体的につながっており、過去から未来へと一体的にうごめいてきている。しかしながら個々人はそれぞれが異なったカルマを受け継いでおり、表面上はお互いが孤立し、戦い合っている。こうした個々のカルマを実践しながらも、段階的な厳しい修練ののち、欲望や執着を断つことができるものは、やがて個々人の歩みが大いなる宇宙の真理と一体であることを感知し、この世において真の平安を得ることができる。これがヴェーダの基本的な考え方です。
一方でウパニシャッドは、ヴェーダ文献の最後に位置するヴェーダの哲学的説明書の集成されたものです。古くは紀元前500年前後に成立し、新しいものは紀元後にも作られています。リグヴェーダやヤジュルヴェーダ、サーマヴェーダ、そしてアタルヴァヴェーダの四大ヴェーダが神秘的、象徴的な表現が多いのに対して、ウパニシャッドは我々がいかに生きるべきかの指針となるような表現も見られます。しかし基本は古来から伝えられた言葉の響きそのもののに基づく、象徴的な表現の解釈が中心となっています。
資本主義社会における市場経済はこれからもますますグローバル化していかざるを得ません。そこで企業は海外進出に乗り遅れないためにも、世界共通の言語として英語が堪能な人間を積極的に採用しています。その結果英語圏以外の世界中の家庭が、猫もしゃくしも子供たちに英語の特訓をさせています。これは果たして良いことなのでしょうか。古来から自分たちの民族の言葉によって伝えられた知恵や考え方を学ぶことを怠ることがなければよいのですが。
オーストラリアから来た若い英語教師は、とても今の日本の英語塾では子供たちは英語が上達しない、親たちの自己満足にすぎないと言います。英語が上達するためには、ちょうど外国から来た相撲の力士が数年で日本語がしゃべれるようになるように、英語圏の国に出かけてそこで英語しか使えない状態で数年過ごしてみることです。そこでこそ生活の中から言葉の様々なニュアンスを学ぶことになるのでしょう。日本で難しい文法や単語、熟語などを頭に詰め込んでどうなるというのでしょう。
そう考えてくると、英語圏に住んでいる人がこのグローバルな世の中ではえらい得をしているということになりそうです。そうなったのは歴史的にみて英語圏の国々が強力で他の言語圏の国々を圧倒してきたからです。強い国の言語が世界共通の言語として世界全体の意思疎通を支配してきたわけです。
彼らは弱い国の文化や言語を尊重したり学んだりする必要はなく、そのまま自分たちの文化や言葉を持って、世界中に出かけていくことができます。それは世界平和にとってよいことなのか。そうした疑問から、1887年ザメンホフによってエスペラントが世界共通の言語として創設されました。エスペラントを話す人たちは、特定の強い言語が世界を支配することに反対します。当時はまだ英語が世界共通の言語ではありませんでしたが、彼らはどんなに少数民族であってもそれぞれの民族の言語を貴重な文化として尊重し、民族間の対等な文化的交流の架け橋となることを目指します。彼らはそのことによってエスペラントが世界平和に貢献できると確信していました。宮沢賢治もこうした考えに同調してエスペラントを学んでいます。
しかしながら、実際の状況としては、残念ながら世界共通の言語としては英語しかありません。やはり英語はとことん勉強しなければならないのでしょうか。そんなことはありません。しゃべるのには我々が中学校で学んだ英語で十分です。基本的な単語や文章でどんどんしゃべって、英語圏の人が幼稚でおかしいと思えば、当たり前じゃないか、我々はあなた方の国に住んだことはないのだから、あなた方も我々の表現が理解できるように努力してもらわなければ困ると言ってやればいいのです。インドではヒンズー語、グジャラート語、ベンガル語、タミル語など様々な言語が公用語となっていますが、共通の言語のひとつとして、やはり英語が使われています。しかしその英語はインド的発音の英語であり、インド人の生活になじんだものです。何も英語圏の人々のようにスマートに話す必要はないのです。
我々日本人は中学、高校と英語を学んできたのに英語がよくしゃべれない、とよく言われますが、日本の英語教育はあくまでも読めることが中心でした。私は、それはそれで良かったと思っています。英語の文章が読める、英語の書物が読めるということは重要です。しかししゃべることは英語圏の文化との親密な接触を意味します。私たちには私たち独自の言語や文化というものがあるはずです。そのような貴重な財産を無視して、多くの時間を費やして、外国人の言葉のニュアンスを単語や文章としてまねたり、いちいち暗記しようとするならば、ずいぶんとばからしい話です。そういうことは英語圏の国に長年住んだことのあるプロの通訳に任せておけば良いだけです。あるいはそのうちその場で簡単にやり取りできる翻訳機械が発明されることでしょう。
この際、英語というものが話し言葉として今どのような位置にあって、またそれぞれの民族の文化や言葉が今どのような位置に追いやられているのかということを改めて考えてみることも必要だと思います。
1919年東京に生まれ、2008年、88歳で亡くなりました。日本語の音韻や起源について大きな功績を残しています。源氏物語の解釈などでも豊かな発想を展開されました。南インドの「国語」であるタミル語が日本語の形成に影響を与えたという彼の考えは、一般にも週刊誌等で大きな反響を呼びました。その筋の学会ではあまり評価はされていないようですが、何もタミル語だけが日本語の起源などと考える必要はないのです。自ら南インドに乗り込んで研究された大野さんの解釈では言語だけではなく生活習慣も、たとえば正月のドント焼きや注連縄など日本の文化との共通性を指摘されています。また日本と同じような環状列石も見つかっています。私も実際南インドを訪れてそれらを確認してきました。ですからタミル語を話す人たちが海上の道を通って日本にたどり着いたということは大いにありうることです。
彼のタミル語研究で重要なところは、タミル語という言語の背景にあるドラヴィダ文化の世界的な普遍性を見て取ったということです。つまり普遍的な文化は言語を伴って世界中へと広がっていかざるを得ないのです。それを海上の交通によって最後に受け入れたのが古代日本なのです。
インド古来のドラヴィダ人は、西からのアーリア人の侵入によりインダス地域から南インドへと南下し、そこにアーリア人の文化と混在したヴェーダ文化を築いてきました。ですからタミル語やテルグ語などを話す人々の文化はインダス文明、果てはメソポタミア文明などの古代文明にもつながる可能性を秘めています。私は南インドのカーンチプラム大学に集められている膨大なヴェーダ文献の資料室を見学することができました。そこにはパームリーフにサンスクリット語で書かれた何十万枚もの古代文献が保管されていました。数人の若い研究者たちが古くなったパームリーフを一枚一枚汚れを薬品に浸して丁寧に洗い流し、乾燥させていました。そうして文字が読めるようになったものを写真に撮って、デジタルとして保存する作業も別の部屋で続けられていました。何千年前の全世界のパームリーフがここに集まってきているといいます。逆に言えば古代、サンスクリットで書かれたヴェーダ文献はここから全世界に広がっていたということになります。それだけ普遍的な文化が古来からこの地にあり、そして全世界へと伝播していったということを示しているように思えます。
タミル語と日本語の関係も、これからは古代文明の伝播の世界史的な視野をも考慮に入れて研究していく必要があると思います。
彼は1887年に大阪で生まれ、1953年に亡くなっています。日本が生んだ最も思弁性豊かで希有な民俗学者、国文学者です。彼には同性愛的な傾向があり、生涯独身でした。28歳の頃、日本民俗学の泰斗、柳田国男が出した民俗学誌に投稿することによって柳田の注目を受け、柳田を生涯師と仰ぎます。折口は全国を駆け巡って民俗学の資料を独自に採取していきますが、その方法は厳然たる社会科学として民俗学を打ち立てようとしていた柳田にとっては、あまりにも文学的な志向や直感に頼ったものとして批判の対象となります。
私は、後狩詞記や遠野物語など柳田国男の書物から民俗学への興味を持ちましたが、やがて科学的な実証や帰納的な方法にこだわる彼の論理に飽きてしまいました。それにもかかわらず、ある種の柳田の文章には文学性豊かな才能があふれています。そうした中に「子供の眼」という小さな文章があります。彼が石巻から車で通った道ばたでの出来事が書いてあります。
「遠くに休んでいた馬車の馬が急に首をまわして車を引いたまま横道に飛び込んだ。小学校を出たばかりの小さな馬方が綱を手にしたまま転んだときには、馬車の後輪が腹を乗り越えていった。それでも子供はまっすぐに立って三歩ほど馬を追って振り返ってちょっとこちらを見て、腹を両手で押さえてまた倒れた。とにかく病院へ連れて行かれて、そのときは助かったが、ただの一瞬間の子供の眼の色には、人の一大事に関する無数の疑問と断定とがあった。その中で自分に問われたように感じたのは、折も折り、どうしてこの刻限にここを通り合わせることになったかという疑問で、それがまた朝からいろいろの手配の狂い、計画の数回の変更がちょうどこの場へ今、我々の自動車を通らせることになったのを、一種の宿命のようにもとることができたからである。」
折口によれば、ある注意を引くようになったことがおこったとき、古代の人たちはこれを神のおこした「ほ」としてその意味するところを知ろうとしたといいます。子供は感覚的に事故の意味を問い、柳田は「人の一大事に関する無数の疑問と断定」を示す子供の眼に心を奪われ、自分がその現場に至った経緯の意味するところを考えます。折口もまた、全国を駆け巡る民俗採取の中で、出会った事実の意味を問うかたちで、自分の歩む道筋を見いだしていきます。
折口信夫の業績の一つとして、言霊の思想があります。言葉は発することによって、唱えることによって、威力を発揮するという考えです。古代社会においては神官や政府の高官などが民衆に向かって唱える言葉は、それだけで重要な意味を持っていたというのです。読み取る情報に多くを依存する現代の我々にとっては理解しがたい面もありますが、言霊の思想は古代ヴェーダでも重要な位置を占めています。折口にとって古代とは律令制が整い、国として日本全体が統制されていく以前の世界のことでした。「我々の住んでいる土地も山川草木もすべてこの古代から、霊魂を付与されたものが発育してきて国土として生き、草木として生き、山川として成長してきた」と彼は言います。そこから日本の祭りや歌の起源を説いていきます。古伝承の祝詞や叙事詩にも、「伏す」や「振り」などの表現に、霊魂がついたり離れたりする論理を展開していきます。そこからまた彼は、近世の芸能である千秋万才や田楽、能、歌舞伎へと日本文化に特有な、いわゆる語り口の文化を見いだしていきます。折口はこうした語りや祭りなどの伝統芸能、それに万葉集や源氏物語などの国文学作品に対する独特の解釈を通して、これら日本古来の文化が今なお我々現代日本人の生活の安寧と平安を支えているのだと言っています。
私が南インドのマドゥライでタクシーに乗ろうとして何台かのタクシーのたまり場に近づいたときのことです。私は近寄ってきた男と値段の交渉をしました。話がまとまりましたが、彼は自分のタクシーではなく、別の男のタクシーに乗れと案内してくれました。オートリクシャでも、タクシーでも、たまり場では、そこを仕切っている男がいて、その男が客と値段の交渉をし、決まればその男がどのタクシーに乗ってもらうか指名するのです。一種のカースト的な互助組織で、仲間が平等に仕事にありつくように調整するのでしょう。
カーストは単に身分制度として位置づけられるにはあまりにも複雑な、インド古来の共同体的な文化です。主にバラモン、クシャトリア、ヴァイシャ、シュードラという4つの姓に分けられるヴァルナと伝統的な職業等の区分によって細分化されたジャーティからなります。ガンジーはヴァルナについて次のように述べています。
「ヴァルナとは、人が生計を立てるために祖先より受け継いだ職業に従事するというものである。ヴァルナはヒンドゥー教徒に課せられたものではなく、人間の福利の実現を託された人々が発見した法則である。それは人間の案出したものではなく、普遍の自然法則の一つであり、ニュートンの万有引力の法則のように、常に存在し、働いている傾向の表明である。引力の法則は、それが発見される前にも存在していたように、ヴァルナの法則も存在していた。ヒンドゥー教徒はその法則を発見することができたのである。西洋の人々はいくつかの自然の法則を発見し、応用することによって、物質的所有を容易に増大させることができた。同様にヒンドゥー教徒は、この抵抗できない社会的傾向を発見して、精神的領域において、世界の他の国が達成したことのないことを達成できた。我々がヴァルナの法則に従うことができなかったことが、我々の経済的、文化的荒廃の、大きな原因である。それは、失業と貧困の一つの原因であり、不可触民制と背信の原因である。優劣の考え方は全くヴァルナに矛盾している。共同体は互いに依存し合っているので、すべてのヴァルナは平等である。
今日、ヴァルナは高い、低いという階級を意味している。それは本来のあり方に対する忌まわしい曲解である。ヴァルナの法則は、我々の祖先が厳しい苦行によって発見したものである。彼らは最善を尽くしてその法則に従って生活しようとした。我々は今日、それをゆがめてしまって、自分たちを世界の笑い者にしている。世界は現在それを無視しているかもしれないが、将来、それを受け入れなければならないであろう。それはすべての人がそれぞれの生まれによって定められたことを、義務と奉仕の精神で行うことによって、自分の存在の法則に従うようにと規定している。」(「ハリジャン」1934/9/28)
「カースト制度の美点はそれが富の所有の差異に基づいていないということである。カーストは家族の原理の拡大に他ならない。両方とも血と遺伝によって支配されている。カーストの基盤にある精神は、尊大な優越感といったものではない。それは自分の文化の異なったシステムの区分である。それは可能な社会的団結と進歩の最も優れた調整である。それは異なった見解とそれにあった生活様式を認めるだけである。しかし、ある種の階層性がカースト制度において発展してきたということを否定しても仕方がない。」(「ヤングインディア」1920/12/29)(以上「わたしの非暴力」みすず書房 森本達雄訳から)
ガンジーがカーストをインド固有の文化としていかに深く理解していたかがよくわかると思います。ガンジーは不可触賤民出身で仏教徒に改宗し、後に法務大臣としてインド憲法の制定に関わったアンベードカルと、カースト制度を巡って、激しい論争を展開します。アンベードカルはカースト制度をインドの悪癖として根底から否定し、ヨーロッパの民主主義と機械文明を自由平等と進歩の象徴として擁護します。現在でも私の出会った多くのインド人はシステムとしてのカースト制度を話題にすることを回避したがります。現実としてカースト制度は少なからぬ弊害をもたらす場面があることでしょう。
しかしこの民主主義社会においても、民主主義社会であるが故の名ばかりの形式的な平等主義とそのことによってもたらされる不平等がどこにでも見られます。例えば財産を築き上げた人たちが、この財産は自分が努力して勝ち取ったものだ、だから政府は努力もしない貧しい人たちに税金を投入すべきではない、といったような考え方です。本当に自分の努力だけで途方もない財産を築き上げることができるのでしょうか。膨大な遺産や運のよさや、策略もあったかもしれません。あるいは純粋に自分の努力だとしても、膨大な資産を私有物として楽しむことが正常なのでしょうか。
十数年前、レントというミュージカルがアメリカで上演され話題になりました。家賃も払えない貧しい若者たちが、生きていくための居住権を主張するシーンが印象的でした。家賃が払えなければ住む権利はない。即ち働くもの食うべからずの発想です。しかし働く機会や金を稼ぐ機会が平等ではないとしたら、それを単に個人の努力次第だと言い放つだけだとしたら、民主主義社会は本当に我々が最後に到達した社会なのだろうかと疑問に思ってしまいます。ガンジーは必ずしも民主主義を否定してはいませんが、民主主義を生んだヨーロッパの近代文明にはその成果を認めながらも、ある種の疑念を抱いていることは確かでした。カースト制度は、近代民主主義における自由・平等について考え直してみる上で重要な意味を持つ問題だといえます。
ガンジーの自伝を読むと、彼の生まれ故郷であるグジャラートを中心として、インドの伝統や文化というものがいかに彼の人生を方向付け、導いていったかがよくわかります。特に菜食主義やカースト制度についての彼の執拗なほどのこだわりは、西洋の近代合理主義に対するインドの大地からの疑問の投げかけでもあるということを考えなければ意味をなしません。
本来はにかみ屋の何の変哲もない人間でありながらも、マスコミや政治の世界に巻き込まれながら、彼があれだけの象徴的な足跡を我々に残していったのは、まさしく彼が西洋ではなくインドで生まれたからだと思います。普通の人間として名誉欲や自己顕示欲、そして抑圧者への激しい憤りや逆に無力な自分への極度の羞恥心や絶望感を感じながらも、彼は彼に向かってくる出来事に対して、自己をさらけ出していきます。そのとき彼の心の支えになったのは、父や母から受け継ぎ彼の血や肉となっているもの、そしてヒンズー教に依拠した宗教的伝統のようなものでした。否応なく彼に向かって起こってくる出来事とは、彼の家族の問題であったり、当時の西欧列強による南アフリカやインドの民衆に対する搾取や弾圧でした。そして無力な自分にたどり着くしかなかった時、彼を特に支えたものが、母から受け継がれたインド伝来の道徳的な教えでした。ガンジーの考えを育んだインドの宗教的、民族的な背景、そしてそれが決して一個人、一民族の考えにとどまらず、古代から連綿と続く、人類の普遍的な考え方に連なるものでもあるということを考えてみる必要があります。
私がここで空海について註釈しようと思ったのは、仏陀の教えとは異なって、空海の心の内部に古来インドのヴェーダ哲学に通じる考え方を見て取ったからです。空海の場合も自己の内部の特殊性を宇宙全体の普遍性と結びつけることに精根を尽くしました。彼は言っています。「宇宙の真理そのものとしての大日如来と自己の本性とが同一であると瞑想する観想に入るならば、いかなる働きも、いかなる姿も本来的に本尊と平等であり、それはまるで虚空のようである。」(即身成仏義)と。彼は自己の内部にある欲求や課題は常に世界の最先端の問題と結びついていると考えていました。それは彼が中国に渡航してからも消え失せることのない信念であり、又彼が中国における当代随一の知者たちと対等に渡り合えた自信につながるものでもありました。では彼が自己の内部に見続けた普遍的な問題とは何か。その一つは性の問題、男女の問題であったように思えます。
私がインドを最初に訪れてインド中のヒンズー教寺院を歩いたとき感じたのは、男女の絡み合う立像の多さでした。これらエロチックな立像の氾濫をどうとらえたらよいのかわからないまま、ムンバイのプリンスオブウエールズ博物館を訪れたときのことでした。チベット仏教の展示室に入ると、そこに男女が合体した絵図があり、イヤホーンからは日本語の説明が流れました。この合体は男性の哀れみの心と女性の洞察力があいまって世界が形成されることを表しているというのです。チベット密教の絵図は、こうして象徴的に男女が絡み合っていますが、ヒンドゥーの神々の周りを飾る男女の絡み合いも圧倒的です。これをヒンドゥーのリンガ(男根)とヨーニー(女性の陰部)に象徴するような生殖と豊穣の讃美に帰するだけならあまりにも単純すぎます。それで私はこの博物館での解説にはたと思ったのです。シバ神は破壊の神だといってもやはり男なのです。哀れみに浸る男の精神なのです。一方シバの妻たち、特にカーリーやドゥルガーなどは男の哀れみを一蹴する悪魔のような凶暴さを発揮します。それは強烈な現実主義でもあり、それゆえに最も現実を反映し、現実の力学を理解する洞察力なのです。
ここらあたりを西洋の哲学者ヘーゲルは精神現象学でうまく表現しています。戦争や天災の災難にもめげず、所有物を確保し、現実を生き抜いていく精神は女性、特に母親のものだと。男は災難におろおろし、現象を抽象的に解釈して、自分を慰めようとする。社会が悪い、権力者が悪いと、理屈をこねる。しかし女性は現実の権力の力学を肌で感じて、生き抜くための方策を果敢に取り入れていく。だが社会形成にはこれら男性と女性の両方の資質が必要だ。この絡み合いが弁証法だとヘーゲルは言うのです。
密教では、お釈迦様の考えとは少し異なって、この現世で救われないで、なんの救いかということを主張します。これもヒンズー教やヴェーダの教えに通じる考えです。切磋琢磨、努力して、欲望を克服し、最後はこの世で救いを得よというのです。克服すべき欲望とは何なのか。所有欲、名誉欲、食欲、征服欲、性欲等これらすべてこの世を形作る要素でもあります。
ところで、ヴェーダには四住期という考え方があります。ヴェーダについて学ぶ学生期、結婚して仕事に励む家住期、家を出て森林に住む林棲期、そしてあらゆる所有物を捨てて天涯孤独の身となる遊行期です。これらの段階を経ることによってあらゆる欲望を乗り越えていき、最後は肉欲を全く断ち、己の存在に充足するという考えです。最後に至って性欲を、肉欲を乗り越えて一人充足し、遊ぶのです。しかし林棲期まではまだ妻が伴っています。密教では、妻としての女性は洞察力を持って現実の世の中を支える叡智的存在でした。叡智であり、様々な欲望の秘密を知っている存在でした。ヴェーダもまた男性と女性の性差を人生の根源的な要素として認め、男女は共に生活すべきだということを示しています。しかしながら、彼らの人生の最後の段階では、お互いが離れていくべきであるということも示しているのです。したがって、ヒンズー教に見られる男女の交合像は、男性が女性に導かれる人生のある時期の讃歌であると同時に、やがてそこからお互いに乖離していく人生の遍歴をも暗示するものではないでしょうか。
密教に見られる性の考察は、タントリズムを通じてこうしたヒンズーやヴェーダの思想と結びついています。よく話題にされる古代タントリズムの性の儀式も、交合の歓喜の奥底に潜む暗黒や無、そしてやがて一人で歩まなければならないという神秘的な恐怖のようなものを理解しない限り意味を持たないのです。欲望としての性の歓喜はこの世の中を支える女性としての永遠の歓喜であり、また同時にこの宇宙を支える原初の歓喜のようなものだ、自分はたゆまぬ修業の中で、それを理解しそれを乗り越えて大日如来の真理にたどり着いた。晩年の著作の中で、空海は、そのように言っているように思えます。
カントは1724年、東プロイセンの首都ケーニヒスベルクに生まれ、生涯のほとんどをそこで過ごし1804年に亡くなりました。カントの著作のうち、私の学生時代に勇気を与えたものは、純粋理性批判と実践理性批判でした。これらは人間の自由とは何かを説いた本だと理解しました。我々の認識能力は我々が共通に認識している客観世界の範囲では一定の限界がある。時空の枠組みの中で客観的な因果関係以上のものは説明できないからだ。ところが純粋理性というものは実践的な分野、つまり道徳的な領域では我々の認識能力の限界を遥かに乗り越えていくことができるのだ。これが人間の自由というもの。認識能力の限界の彼方にあり、しかも認識能力を触発し続ける物自体というもの、この物自体と直接結びついているものが人間の道徳能力であり、そこでは客観的な因果関係とは関わりなく、自己の内部に自己を触発させる何かを見いだすことができる。ここに人間の自由の根拠がある。道徳とは良心とか倫理的規範といったものだけではなく、それは人間の欲求というもののあるべき姿を自らの責任で持って実現することである、と。
私は当時、少しはすっぱだと思えるある女性を追い求め続けていました。しかしはすっぱであってもあの子が欲しいという欲求、この欲求を肯定し、この欲求を積極的に生きることこそ自分にとっての道徳だと思ったものです。そして物自体と自分の欲求を勝手に結びつけて道徳を解釈するなんともおかしな論法に達したのです。しかし、その当時は自分のカント解釈こそコペルニクス的転回だと思いました。即ち物自体は、どうしようもなく私の欲望が私を突き動かす当のものなのであり、私はそこから逃れることはできない。結果はどうであれ、この欲望の示す道筋を歩むことによって、新たな自分に脱皮することこそ本当の私自身なのだという感覚なのでした。その後、人間一人一人に与えられたこうした道筋の神秘というものは、ヘーゲルの守護神の概念、フッサールの志向性、ハイデッガーの関心、そしてヴェーダのアートマンの概念にもどこかで通じるものだと思うようになりました。
カマコチピータはチェンナイからバスで1時間ほど西へ入ったカーンチプラムにあります。カーンチプラムはインド七大聖地の一つであり、多くのヒンズー寺院が建っています。カマコチピータの創設者は有名なヴェーダ学者であったシャンカラだとされ、彼の後を引き継いだアーチャリア(あるいはシャンカラチャリアとも呼ぶ。)が今もこの施設を維持しています。私があったのは第69代と第70代のアーチャリアでしたが、全世界から教えを乞いにやってくるこの施設を有名にしたのは第68代マハーチャリア(偉大なアーチャリア)でした。彼は節制と厳しい修業によって100歳までいきましたが、インド中を行脚してヴェーダの教えを説いて回りました。彼の教えは膨大な講義録となって残っています。彼は一度ガンジーと会談しています。グジャラート語を話すガンジーとタミル語を話すマハーチャリアでしたが彼らはサンスクリット語やヒンドゥー語を駆使してお互いを理解しあったようです。会談はガンジーに深い印象を与えました。68代マハーチャリアのヴェーダに対する信念の一つが、語る言葉の重要性を強調したことです。もともとヴェーダそのものが本来語り伝えることで伝承されてきました。
カマコチピータのアーチャリアはダライラマなどと同様に巷から天性の子として見いだされ、英才教育を施されるのです。苦しい修業の連続ですが、彼らは早いうちにリグヴェーダなどの4大ヴェーダを何も見ずに口頭でしゃべれるよう暗記させられます。68代マハーチャリアもこのようにして育ち、やがて成人すると多くの人々に教えを説くようになりました。彼はお経と同じようにただただヴェーダを唱えることが重要だと述べています。ヴェーダの言葉を発し、それが空気中に振動として伝わり、対象へと到達し、対象に影響を与える一連の動作が重要だというのです。
古代人には明らかなものとして備わっていた、語る言葉の意味するところを失うまいと、彼は講義録でも語る言葉としてのサンスクリット語を所々に差し挟んでいます。
私が大学に入学した当初はいわゆる大学紛争がまだ始まったばかりの頃でした。地方から出てきた私は、大学の先生たちから今までに知らなかったことを教わりたいと思っていました。ところがその大学教授たちが学生たちから吊るし上げられているのです。最初はあまりにも激しく非難される大学教授たちに同情したものです。しかし学生たちの追求にむやみに怒ったり、おろおろと泣き叫ぶ彼らを見るにつけ、これが国家やマスコミに守られて、甘やかされてきた知識人の成れの果てなのかと思うようになりました。多くの学生たちが展望のない大学生活の中、将来社会に出てどのような生活をすればよいのか悩んでいました。企業に就職して、会社のために身を削って働きずくめの生活を送ってよいものだろうか。結婚して家族を持っても、快適な環境で過ごせるだけの責任が持てるのだろうか。結局私はストライキを続ける学生たちの運動に参加して留年を続けることになりました。
私は大学の図書館に通い、ノートを取りながらマルクスの全著作を読むことにしました。資本論はすばらしい著作ですが、逆に多くの難題を私に突きつけました。商品による市場経済は労働力をも商品化し、全世界的な規模にまで拡大せざるを得ないということを彼は証明していました。そして労働力を商品化することの矛盾の現れとして必然的に恐慌が勃発し、労働者は団結して資本主義を擁護する政府を打倒し、究極的には共産主義社会を実現するのだと。しかしながら現実には、革命のきっかけとなる恐慌にしても、日本や欧米の先進諸国は、独占資本の擁護や公共投資などのインフレ施策などによって乗り越えてきました。その結果、必要以上の資金が投機的なマネーとして全世界を駆け巡り、資本は表面上ますます肥大化し、自己の労働力を商品として売るしかない労働者の矛盾は問われることさえ無くなってきました。
当時学生運動は社会的にも全国的に波及していました。後10年もすれば社会は急激に変化するだろうとは思いましたが、我々を朝早くから夜遅くまで絶え間なく仕事に追いやる資本主義市場経済というものが、この世から簡単に消えてしまうとは誰も想像することはできませんでした。むしろ世界はソ連邦の崩壊後、民主主義の謳歌のもと、すべての国々が市場経済の大きなうねりに飲み込まれる結果となりました。今や誰も資本主義国家の向こうに現実的な可能性として社会主義や共産主義国家の新たな台頭を思い描くことはできません。ではマルクスの著作は、もう展望を与えるものではないのでしょうか。しかしまだ彼の次の文章が心に残ります。
「分業の下における個々人の隷属的な依存=精神的労働と肉体的労働の対立が消滅した後、労働が単に生産手段ではなく、第一の生活の必要にさえなった後、個々人の全面的発展とともに、また生産力が成長して、協同組合的富のすべての源泉が溢流するに至った後、その時初めて狭隘なブルジョア的権利の地平線は全く踏み越えられ、そして社会はその旗にこう書き付けるであろう。各人はその能力に応じて、各人はその必要に応じて!!」(「ゴータ綱領批判」)
これは確かに理論的には理想的な発想です。問題は現実として富の溢流は可能なのかどうか。理論的には開かれた労働力市場である限り、我々はいつかは富の平等化に到達できるのでしょうか。しかし今もって階層間や民族間の貧富の差は顕著です。これは資本主義国家間のゲームでいつかは解決がつく問題なのでしょうか。つまり全世界の人々の生活を維持していくために必要な富は、絶対量としてこの地球上にすでに存在するのでしょうか。そしてその富は、いつかは最下層に向かって充満していくものなのでしょうか。アメリカを始め先進諸国の膨大な富。しかしこの富の偏在こそ資本主義の唯一のよりどころであり、まだまだそこで国家間・民族間の紛争が続いていくのでしょうか。いつかはこのようなパタンにも終わりがあるはずだ。それはいつ、どのような形で実現するのか。
こうした問いは存在しながらも、資本主義はますますグローバル化しながら、スピードと効率性を競い合いながら我々の生活をストレスと絶え間ない喧噪に追いやってきています。一部の繁栄した資本主義国の人々は、お金はなくとも、ある条件下では借りるだけ借りて消費することができる世界。過剰な物資が次々と作られ、マスメディアを使って売りさばかれ、人々はどこでもかしこでも買い物に押し掛ける。そしてまた大量に物が作られていく。この絶え間ない循環が、資本主義社会の繁栄といえるものなのでしょうか。こうした中で、マルクスのいうように生産力の発展が富の充溢をもたらし、人々が誰でも必要に応じたものを手にいれることのできる時代は本当にくるのでしょうか。
そして次は聖マックスでのマルクスの言葉です。「芸術的才能がもっぱら特定の個々人のみに集中し、このことと関連してそれが大衆においては抑圧されるということは分業の結果である。共産主義社会においては画家というものはいなくて、せいぜい他にもいろいろすることがあるが、なかんずくまた絵を描くこともする人間がいるだけである。」(「ドイツイデオロギー」)
先ほどの「ゴータ綱領批判」でも述べているように、マルクスは、精神的労働と肉体的労働の分離が現在の我々の本来あるべき生活を阻害している根本的な問題であると説いています。大学教授であることに何のためらいもない時代。職人としての知識の集積であるのなら、自分の行為と自分の知識に責任を持たなければならない。こうした責任なしに知識を集積していける独特の護られた世界。何を言ってもマスコミや行政で取り上げられ、さまになる世界。そういう世界はもううんざりだと思いたくなる時があります。普段の生活をし、行動する人たちの単純な生活の言葉。もう一度そこへ戻らなければならないような気がします。
最後にザスーリッチへの手紙です。
「様々な原始的共同社会の生命力(数千年)は、セム人、ギリシャ人、ローマ人などの社会のそれ(千年、数百年)よりも、まして近代資本主義社会(ほんの二三百年)のそれよりも比較にならないほど大きかった。」
こういう表現はやはりマルクスのえらいところです。資本主義の彼方にある世界を想い描くには、我々はもう一度数千年の生命力を保ってきた人類の知恵を見直さなければなりません。だがマルクスの想い描く共産主義社会における共同体が原始的共同体から学ぶべき物は何なのか。我々は資本主義の大きな要である国家という枠組みや私有財産制を乗り越えることはできるのか。マルクスの言うように人々は欲求に応じていつでも物を手に入れることのできる社会を実現できるのか。ヘーゲルは国家や私有財産制は人間が社会として到達した最高の理念あるいは形態であると言っています。ある人間の努力の成果はその人間の財産として、当然私有物として評価される物ではないのか。理念的に、いやこれはみんなとの共同成果だと言ってみても、成果物に対する貢献度の強弱は、人間が人それぞれであるように当然異なってきます。
しかしこうした私有財産制を擁護する考え方は、今ある我々の意識が、そのような制度になじんできたからにすぎないのかもしれません。私有財産制の向こう側に、我々はもっと異なった共有意識の世界を思い浮かべるべきなのかもしれません。ヘーゲルは国家や私有財産制も人間社会にとって決して永遠のものではなく、弁証法的には進化し、変容していくものだとも言っています。
ところで私はオーストラリアの友人と話をしていて、人類はこの地球上で後何年生き延びられるのだろうかと聞いたら、彼が後100年だと答えたのでびっくりしたのを覚えています。このままでは人類はじきに滅びてしまうというのです。そのときの彼は、決して冗談ではなく真剣な顔をしていました。確かに、我々にはこのままの生活を続けていくことへのむなしさだけがつのり、人類はやがてレミングのようになだれうって死滅していくのかもしれません。しかし多くの経済学者は楽観視しています。今の世界的な繁栄は、資本主義的な市場経済社会によってもたらされてきた。そして市場経済社会の安定化は国家間の取引によって保証される。したがって、これに変わるような社会は今後もあり得ないと言うのです。本当にそうなのでしょうか。
私たちがクラシック音楽というものを聴き始める年頃に必ずと言っていいほど聴かされたのが「未完成」交響曲でした。私はいつでも懐かしくこの永遠の不滅の音楽の様々な旋律を思い浮かべることができます。第二楽章のクラリネットが静かに歌い始める旋律の美しさは、この世のものとは思えない天上の音楽だと言われてきました。
それに第五交響曲、グレングールドが、彼のレコーディング風景やインタビューを記録した映画で、これはどうだとピアノで聴かせてくれた、第一楽章冒頭の旋律は、これはまた何とも喜びに満ちたものでした。そして恐ろしく悲哀に満ちた旋律で終局へと向かうミサ曲第6番。深く心にしみるピアノソナタの即興曲集。官能的なピアノ三重奏曲第二番。晩年のベートーベンのように構築された室内弦楽曲、例えば弦楽五重奏曲や弦楽四重奏曲第15番。クラリネットのアダージョが美しい八重奏曲。
そして圧巻はやはり歌曲集です。フィッシャーディスカウの「冬の旅」やフリッツ・ヴンダーリッヒの「美しき水車小屋の娘」もすばらしいのですが、ヘルマン・プライの「竪琴弾きの歌」や「旅人の夜の歌」、バーバラボニーの歌う「君は想い」、ゲルハーエルの「春に」なども私にとっては思い出深い曲となっています。
宮沢賢治は1896年、岩手県花巻市に生まれ、1933年に亡くなっています。
「かって、われらの師父たちは貧しいながらかなり楽しく生きていた。そこには芸術も宗教もあった。今我らにはただ労働が、生存があるばかりである。宗教は疲れて近代科学に置換されしかも科学は冷たく暗い。いま宗教家、芸術家とは真善美を独占し売るものである。」(「農民芸術概論綱要」)
ここにはマルクスが述べたような資本主義社会における精神的労働と肉体的労働の分業、そして働くばかりの労働者の現状がはっきりと認識されています。賢治は日本の東北の片田舎で一生を過ごしながらも、当時としては先進的な考えを持っていました。
賢治には銀河鉄道の夜や風の又三郎など我々が小さい頃から親しんだ作品がありますが、ここではヴィジチアリアン大祭という菜食主義についての作品を紹介しましょう。
場面はニューファンドランド島の小さな村、ヒルティというところです。そこで菜食主義者とそれに反対する者たちの大弁論大会が愉快に繰り広げられます。もちろん賢治は菜食主義派ですが肉食も必要だとする論者にも一定の理解を示しながら弁論大会が進みます。そしていよいよ賢治自身とも思われる「仏教徒である私」が登壇し話します。「私」はそのとき議論になっていた仏陀が菜食主義者だったかどうかという問題について私見を述べた後、最後に次のように話します。「すべての生物はみな無量の刧(カルパ)のものから流転に流転を重ねてきました。すべての魂はあるときは人を感じ、あるときは畜産の中に生まれ、あるときは天上にも生まれる。その間にはいろいろな魂、即ち友人や恋人や兄弟や親子などと近づいたり離れたりする。無限の間に無限の組み合わせが離れたり近づいたりする。異教の諸氏はこの考えをあまりに真剣で恐ろしいと思うだろう。しかしまさしく恐ろしいまでにこの世界は真剣な世界なのだ。私はこれだけを述べようと思ったのである。」こう言って「私」は壇上をおります。
ところがその後すぐに壇上にあがった動物学者は顔を真っ赤にして叫ぶのです。「な、な何が故に!君たちは、ど、動物を食わないといいながら、ひ、ひ、羊のシャッ、シャッポをかぶるのか。」彼は興奮のためにがたがた震えてやけに水を飲む。さあ大変です。会場は割れんばかりの笑い声です。
しかしそのあと「私」以外の一連の議論は祭りを盛り上げるための芝居だったことがわかります。歓呼、拍手が鳴り止まない中、「私」はこのあまりのあっけなさにぼんやりしてしまうのです。ヴィジチアリアン大祭の幻想はもう壊されてしまった。後の結末は読者によって、活動写真のおしまいのありふれた舞踏かなんかをつかって勝手に完成願いたい。賢治はこういってこの物語を終わらせています。
ここで賢治は「この世界は恐ろしいまでに真剣である」と述べる自分自身と面白く祭りを盛り上げようとするほかの菜食主義者たちを対比させて、どちらにも存在する心のむなしさというようなものを表現しています。あまりにもまじめすぎる自分自身が逆に融通の利かない狭隘さを示しているようにも思えると同時に、自分にはそうした生き方しかできないという寂しさも伺えます。そういう状況を童話として表現できるところに賢治の才能があります。
賢治は18歳のとき法華経と出会い、それ以降冬になると寒修業のために参禅し、また夜の街通りを南無妙法蓮華経と声高らかに唱えながら歩き回ります。街の人々は、ものめずらしげに見るのは賢治の両親に気の毒だと思って見ぬ振りをしますが、賢治のかん高い声は冬の寒夜に遠く澄み渡ります。その後県立農学校の教諭となってからは、死に至るまで独自の肥料原理により、貧しい農民のために奔走します。この間賢治は菜食主義を貫き、37歳の若さで病死します。
生きていく一人の人間の世界がこうも徹底して思想的な一貫性を持つと、ある者は人間的多様性を阻むものとして、それを狭隘だといい、あるものは非人間的な不可解さの領域に問題を追いやってしまいます。晩年には仏教が賢治を飲み込んでしまったという賢治論も少なくありません。だが私がここで言いたいのは、生きていく一人の人間が持つ思想というものは、それ自身人間の世界の多様性をかたちづくる要素ではあっても、それが表現される限りではある一面的なというか、他の思想的表現との対立、拮抗関係にあって、初めて本当の意味を持つものなのではないかということです。
このことはガンジーの生涯でも言えることです。西洋の合理主義者たちにとっては、どうしても合点がいかない菜食主義や断食は、近代的な合理主義に対峙する形でしか表現できない、やはりやむにやまれぬガンジー自身の思想的な表現なのだといえるのです。
「我々はいつも心に感じなければならない。すべての人々は一体であり、すべての人々に愛をいきわたらせなければならないことを。しかしカルマにおいては、行動においては、めいめいが異なっている。これがヴェーダの教えなのである。」
古来インドの識者はこういっています。めいめいが異なる行動をとりながらも、結局は人類としていつかは共通に理解しあえる足跡を残していくのです。
タラの芽庵注解