そろそろ、書くことの内容も枯渇してきたので、今までの経過をまとめてみました。
小学低学年までは、鹿児島市に住んでおり、主に近所の貸本屋で漫画を借りるのが楽しみでした。小学三年の頃、銀行に勤める父の転勤で宮崎市に移住すると、四年生ごろから何か文章を書くのが好きになったような気がします。当時父の銀行の職員の機関紙に「僕のお父さん」と題する文章を載せたところ、当時社長であった中村地平さんがそれを褒めてくれて筆記用具とノートをもらったのを覚えています。地平さんは、社長であった父親を引き継いだわけでしたが、もとより作家としての立場が社長職なぞに対応できるか疑問だったようです。父から聞いた話では、神経質なほど綺麗好きで、職員に社長室のドアの取手などをいつも消毒させていたようです。
小学五年ごろ、クラスにハイジストマか何かで進学が遅れた生徒M君がいました。もう大人の体格で普通だと中学高学年の生徒であったのが、長期間の病気もあって少しぐれたところがあり、ヤクザとも付き合っていたようでした。小学校でも教師や生徒から煙たがられていました。当時私はどういうわけが勝手に学級新聞のようなものをガリバン刷りで作って、みんなに配っていました。ある日曜日の朝、M君が突然私の家を訪れて、学級新聞の次号の編集手伝うよと言ってきたのでした。早速二人で学校に行って、できていた原稿を手分けしてガリバンを切ったものでした。新聞はほとんど私が書いたものでしたが、その中でも連作ものの物語を書いていました。内容は忘れてしまいましたが、ある日、学校でまだ鼻たれ小僧のような同級生が、あれ、いつも読んでるよ、面白かった、今度話はどうなるのかなあ、と言ってくれたのをはっきり覚えています。
中学では特にそのようなものは書いたりしていなかったようです。ただ、合唱部や放送部に携わっていました。昼休みには放送室から全校生徒に何か番組を作ってマイクに向かって流していたようです。これも一部の生徒には評判が良かったような気がしますが、一方で不良気味の生徒に生意気だと因縁をつけられたこともありました。
また、父が世界文学全集を毎月購入してくれたことから、ロマン・ローランやトルストイの作品などを読み始めました。
高校時代は、いわゆるベビーブームの世代の受験地獄のなかで、ではそれだけで良いのかという機運が一部の生徒の中で広がり、私は有志たちと『毛わた鴨』というガリバン刷りの冊子を作り全校生徒や教師に配布しました。教師の反応はまちまちで、数学の教師などは、顔を真っ赤にして、こういう不謹慎な冊子を教師に配るとは何事だ、と怒鳴っていました。
また、高校時代には、分からないながらもニーチェやカントなどの哲学書も読み漁りまた。
大学受験は現役では失敗し、東京に出て予備校通いの浪人生活が続きました。宮崎という狭い文化的空間に我慢できず、どのみち東京などの中央に出て、さまざまな先進的文化とじかに接触したいと思っていました。しかし、浪人時代はほとんど受験勉強の生活でした。一浪でなんとか大学入学できましたが、当時は大学紛争たけなわの時期で、全共闘によるストライキが頻発し、ほとんど授業は行われませんでした。全共闘と教授陣との大衆団交のやりとりを見ていたら、急に教授の一人が泣きじゃくりました。それを見て大学に残って教授にでもなろうと思っていた私は、あ、こりゃだめだと思いました。全共闘の言い分の方がまだまともでした。
私は教養学部でドイツ語のクラスの全共闘10人ばかりをまとめる役を担いました。また、カトリック研究会というサークルに入って、西洋哲学を学ぶことにしました。そこで私が音頭をとって出版した雑誌が『からしだね』でした。そこで私は「個体的人間と革命」と題して、ぎょうさんな論理を展開しています。今読んでみると冷や汗ものですが、ドストエフスキーの小説などを紹介しながら、意識の集合体として運命付けられている個々人がどうやって革命を志向できるのかを強引に説いたものでした。
当時親戚の千葉のアパートに住んでいたことから、千葉県庁に就職しました。配属された出先で組合の分会活動を積極的に行いました。当時はガリバンではなく、ボールペンなどでなぞって謄写版にかけるビラをどんどん配布しました。私のビラはストライキなど政治的なことだけではなく、文学的、思想的なことも書いたので組合員には戸惑いもありました。しかしその後組合の大会があった時、あなたがあの当時のビラを書いたのですかと話しかけてくれた組合員がいました。あれを読んで大変勇気づけられたと話していました。
本庁に異動してからは、農林部に配属されました。そこで「農学会」という研究会を立ち上げ、さまざまな農業問題をテーマに会員がレポートし合うというものでした。時には専門家を読んで話を聞いたり、農業試験場や畜産農家を訪ねて話を聞きました。この会合で私は結果をまとめていましたが、その数は結構なものになっています。なかなか有意義な研究会でした。
一方、農業と離れて全庁的な同人誌『窓』を仲間と立ち上げました。
創刊号で私は日吉ゆりという女性名で「北の館から」という短編を書きました。宗谷岬にたどり着いた女流ピニストが彼氏を思い、酔いどれ船になる話です。
同じ年の第二号では、表紙を版画家でもある職員組合長にお願いしました。当時はまだ組合活動と文学的な活動が一体的に行われる雰囲気が残っていました。これとは別に同じ課内の有志で宮沢賢治の読書会なども仕事が終わった後定期的に行いました。
5号では、「私たちの子供たちが別の社会の可能性を知ることができるように・・・」との思いから、『友へ、我が心のフロンティア』と題する文章を書きました。表紙は館山在住の女流版画家、Nさんにお願いしました。
6号は手元にないのですが、「健太の冒険」と題した短編を書きました。そして7号は私の文章に対する批判に反批判で答えた文章と、私が組合活動などで書いたビラの抜粋を『知識について』と題して発表しました。
以上、農学会と同様に『窓』という職場同人誌の発行もそれなりに続いた活動でした。
農学会の延長上には自らも実践しようという気運が出てきて、面白い農業を試みてみませんか、というパンフを作り、有志を募りました。
そして県内酪農団地の組合長と知り合うことになり、団地内に大きなログハウスを作ることになりました。まほろば会と名付けて十数人の有志が集まり、休日を利用して五年ほどかけて完成したのが「タラの芽庵」という大きなログハウスでしたでした。そこで陸稲やお茶など畑作をも行うとともに、私は『まほろば通信』というミニコミ誌を発行しました。
創刊号では、おもしろ農業の現地訪問記として、「風の学校」の中田正一さんを訪ねました。単身アフリカの農村飢餓地帯を訪れて民間ボランティアの難しさを痛感され、風車を利用した揚水ポンプの研究に専念されていました。またすでに亡くなりましたが、「大地の会」の藤本敏夫さんを南房総に訪ねて、山の中腹に広がる平飼養鶏や野菜畑、水田の複合経営の「自然王国」を、山中をスバルの四駆で案内してもらいました。
2−3号では、島崎藤村の『夜明け前』についての評論を書きました。
そして第4号では、折口信夫の『死者の書』についての解説を書きました。
5号では、これが最後になったのか、「まほろば100冊の本」と題して、会員それぞれが読んでよかったと思う本を選んで掲載しました。いろんな本が集まり面白かったです。
さて、こうした活動の最中に、私は本格的な小説として『逢坂物語』を刊行しました。
二段組、細かい活字で366ページにもなる長編小説です。予算がないので近くの安い印刷屋にフロッピーディスクを渡して印刷してもらいました。前口上では、「円盤や宇宙人まがいの生きものがちらついたりして、といっておもしろおかしいSFものでもなさそうです。たどたどしい無名人の願望があやしげな大阪弁となって未来を問いかけていくというなんとも系統づけられない物語です。」と語っています。
ここでの主人公、野田又夫は、のちに発行した『サラリーマン常磐満作の時間』では、お寺の住職になっています。
かって常磐満作は野田又夫の友人でした。
退職直前は、私が南インドに出かけるための準備に追われました。二度目のインド旅行で私はログハウス「タラの芽庵」で考えたことをまとめた『タラの芽庵だより』(The letter from tranomeann) をインドの人々に見てもらいました。
そのおり若い僧から、お返しに故マハーチャリアの講演集『Acharya's Call』をもらいました。その後、ガンジーとも対談したことのある故マハーチャリアの直弟子であるアイアーさんからは直接あるいはメールを通じてインド古来の思想であるヴェーダについて学ぶことになりました。アイアーさんは96歳。まだチェンナイに住んでいてご健在です。
また母が亡くなった後、このホームページを充実させることにしました。
ホームページでは、書簡とモノローグによる小説『サラリーマン常磐満作の時間』を連載しました。連載が終了した後、自費出版の単行本として刊行しました。
私の創作の目的は、常に無名の人々の心の底に漂う集合体のようなものを、人々の交流を通じて明らかにしていくことでした。成功しているかどうか分かりませんが、そうした目論みの小説です。
また、ホームページで連載していた『やまぼうしブログ』の中から、抜粋したものを本にしました。『ポットをたたきわるハリジャン』です。拙い考えですが、ここには私が今まで四苦八苦して考えてきたことが集約されています
。
2冊の刊行物は、大方よくわからないという批評をもらいましたが、読んでいただいただけでもありがたいことです。この本とは別に大学の雑誌にインドのことを書いたことがありました。それを読んだ私より年配の卒業生の方からもっと詳しくインドのことを知りたいとお便りをいただきました。その方とは実際お会いして交流が続いていますが、送らせてもらった『ポットを・・・』について積極的な評価をいただきました。また数少ない友人たちに興味を持って読んでもらっています。そんなささやかな刊行物です。
妻が亡くなってから一年が過ぎましたが、妻と親しくしていただいた詩人のご夫婦から定期的に出版されているミニコミ誌や文芸誌『White Letter』に作品を載せないかというご依頼があり、これまで数点を掲載していただきました。お二人は長らく地域の文化交流に携われてきており、私も微力ながら参加させていただいております。最近は会合で浅学ながら折口信夫についてレポートもさせてもらいました。
個人的な歴史